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養蜂家の青年は、蜜薬師の娘に出会う
 山を登るのに杖を渡されたが、これはただの杖ではなかった。
 荷棒(にんぼう)と呼ばれ、ひと休みをするときに背負子の下に入れて荷物を支えるのだという。つまり、座らずに立ったまま休憩するようだ。
「背負子を下ろしたら、再び持ち上げるのが困難なときがある。よって、なるべく短い休憩時間のときは、下ろさないようにするのだ」
「なるほど」
 背負子の荷物はズッシリと重たく、疲れた状態ならば背負って立ち上がる行為が困難な状況になるのかもしれない。
 山で暮らす者達の知恵なのだろう。
 若葉萌ゆる木々の間を、縫うように進んでいく。
 一時間ほどなだらかな坂道だったが、だんだんと険しくなっていく。
 全身汗をかくと、途端に傷が痒くなる。汗が染みこんで気持ち悪いので、包帯を取った。
「イヴァン殿、大丈夫か?」
 正直に言うと、大丈夫ではない。
 言葉に出さなかったが、伝わってしまったのだろう。マクシミリニャンはこちらへズンズンやってきて、俺の背負子の荷物を下ろしてくれた。
「しばし休もう」
 木々が生い茂り、獣しか通らないような道である。休憩するような場所ではない。
 しかしながら、膝の力が抜けてその場に頽(くずお)れる。
 すぐにマクシミリニャンが体を支え、何か口に押し込んできた。
 甘い――すぐに、蜂蜜のキャラメルであることに気付く。
「それを、舌の上でゆっくりとかし、呑み込むのだ」
 疲れた体に、染み入るような甘さである。続けて、マクシミリニャンは鞄からカップと水、それから蜂蜜の瓶を取り出し、水に溶いたものを飲むようにと差し出してきた。
 不思議と、辛い気分が薄くなったような気がした。
「山で疲労を感じたときは、これが一番だとアニャが言っていた」
「そう、なんだ」
「どうだ?」
「うん、だいぶいい」
 怪我が完全に治っていないのに、無理矢理家を出たからだろう。あまりの計画性のなさに、がっくりとうな垂れてしまう。
「怪我の治療は、アニャに任せよう」
「医者からもらった薬があるんだけれど」
「皮膚が酷くただれておるぞ。これは、痛かっただろう。おそらく、薬が合っていないのではないか?」
 そういえば、ミハルが「街の医者はヤブだ」なんて言っていたのを思い出す。
 生まれてこの方、ド健康だったので医者にかかることはなかったのだ。
「なんで、ただれたんだろう。今まで、薬を飲むような病気にかかったことがなかったから、相性が悪かったのかな」
 傷口をかかないほうがいいというが、ついついバリバリと爪で引っ掻いてしまう。その瞬間、痛みに襲われるのだ。
 なんだろうか、この、痒みを訴える傷をかくと痛いという現象は。人体の謎である。
「暇を見つけて、リブチェフ・ラズの医者にかかったほうがいいのかな?」
「リブチェフ・ラズには、医者はおらぬ」
「え、そうなの!? このまま治りが遅かったら、どうしよう」
「安心せい。アニャは、“蜜薬師(みつくすし)”である」
「蜜薬師?」
 初めて聞く言葉だったので、思わず聞き返してしまう。
 蜜薬師――それは、豊富な蜂蜜の知識を持ち、蜂蜜を薬のように処方する存在だという。
「蜂蜜は、万能薬とも言われておる。症状ごとに蜂蜜を選び、体調をよい方向へと導いてくれるのだ」
「へえ」
 もみの木の蜂蜜は、イライラと不眠症緩和に。
 タイムの蜂蜜は、咳止めに。
 リンゴの蜂蜜は、便秘の解消に。
 一言に蜂蜜といっても、種類ごとにさまざまな効果があるようだ。
「イヴァン殿は、毎日蜂蜜を食べていたから、今まで健康だったのだろう」
「そう、なのかな?」
「自信を持て」
 言われてみれば、同じように蜂蜜を食べている家族も、滅多に風邪を引いたり、腹を壊したりしない。蜂蜜の効果だったのだろうか。
「リブチェフ・ラズの村人も具合が悪くなれば、アニャを尋ねてやってくる」
「八時間かけて?」
 マクシミリニャンはコクリと頷いた。
 患者本人でなくても、家族が相談にやってくる場合もあるらしい。
「ブレッド湖まで馬車で飛ばしたら二時間なのに、わざわざ八時間かけてやってくるんだ」
「ここの者達は、それだけ蜜薬師を信頼しているのだ」
「なるほど」
 ヤブ医者にかかるよりは、蜜薬師を頼ったほうがいいというわけか。
「どれ、水で、顔を洗おうか」
「え、いいよ」
「しかし、肌に合わない薬を塗った状態では、余計に傷が悪くなるだろう」
 まずは、肌に合わない薬を水で流したほうがいいと言われた。
 マクシミリニャンは容赦なく、頭の上から水をかけてくれた。おかげで、上半身までびしょびしょだ。
 しかし、汗をかいていたので、ついでだと思って着替える。
 さっぱりしたところで、登山を再開した。
 サラサラと、水のせせらぎが聞こえる。山には大きな川があり、生活水として使っているらしい。
 美しい川だが、感動なんてしている場合ではなかった。
 川を沿うように上がっていくと、だんだん岩場になっていく。そこを、昇っていくのだ。
 着替えたのに、すぐに汗だくになる。
 かと思えば、滝のある場所はキンとした冷気が漂っていた。汗が一気に引いて、ガクブルと震えてしまう。
 街で買った外套では、寒さなんて耐えきれない。
「これを、着られよ」
 マクシミリニャンが肩にかけてくれたのは、光沢のある毛糸の外套だ。
「これは?」
「我が家で飼育している山羊から作った、カシミアの外套である」
 異国産の山羊を皇家から贈られ、代々大切に育てているのだという。
「カシミアって、確か高級品だと言われていたような」
「そうだな。その外套は売れ残りだから、気にせずに着ておくとよい」
 お言葉に甘えて、少しの間借りておく。先ほどまで全身鳥肌が立っていたが、カシミアの外套は冷たい風を通さず、動く度に体が温まるような気がする。
 やはり、動物の毛はあたたかいのだ。
 それから、針葉樹林の木々の間を通り抜け、崖のような角度の斜面を登り、ゴツゴツした岩場を這うように登っていく。
 太陽が傾きかけるような時間帯に、ようやくマクシミリニャンの家に到着した。
「ここが、家?」
「ああ、そうだ」
 山を切り開き、人が住めるよう更地にしていた。
 大きな平屋建ての母屋と、下屋、それから離れが二つほどある。その背後にあるのは、山羊小屋か。他、炭焼き小屋や納屋、石窯に畑や、花壇、果樹などもあるようだ。驚くべきことに、ガラス張りの温室まであった。その向こう側にあるのは、湧き水だろうか。澄んだ透明の水が、サラサラと流れている。
 家の背後にある斜面は、土砂崩れが起きないよう石垣で固めている。思っていた以上に、しっかりした造りの家である。
「我は普段、離れで暮らしておる。イヴァン殿は、アニャと母屋で暮らすとよい」
「いやいや、普通、逆でしょう」
 家長であるマクシミリニャンを差し置いて母屋に住むなんて。俺が離れに住んで、母屋に親子が住めばいいのではないか。そう思ったが、事情があるらしい。
「娘に世話をかけるわけにはいかないからな。十五の春には一人前だったゆえ、話し合って、我は離れに、アニャは母屋に住むことになったのだ。食事は当番制にして、日替わりで作っておった」
「なるほど」
 ここでは、親の世話は子がするもの、という概念はないようだ。
「ところで、アニャは?」
「ふむ。いつもならば、帰ってきたのと同時に出迎えるのだがな。アニャ、アニャー!」
「はーい」
 石垣のあるほうから、元気な返事が聞こえた。
 夕日を背に、大きな何かが接近してくる。
 逆光になり、姿がよく見えない。
 けれど、彼女が何かに騎乗してやってきたことはわかった。
「クリーロ、止まって!」
「うわっ!!」
 急停止による砂埃を浴びながら、はっきりとその姿を確認する。
 まず、目に飛び込んできたのは、大きな山羊である。これが、マクシミリニャンが言っていた騎乗用の山羊なのか。
 ロバよりも大きく、美しい純白の毛並みに、見事な二本の角が生えていた。
 そして、その大山羊に跨がるのは――金髪碧眼の美少女だった。