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養蜂家の青年は、蜜薬師の花嫁と夜を過ごす
 アニャと結婚しても、山で過ごす日々に変わりはないと思っていた。 
 母屋の奥にある寝室を、案内されるまでは。
「ここが、寝室よ」
 そこまで広い部屋ではないが、どでかい寝台がドン! と置かれていた。
 寝台の中心で、アニャの愛犬ヴィーテスがぐうすかいびきをかきながら眠っている。
 紹介されて以来、姿を見ていなかったが、だいたい外か家の中で眠っているという。実に羨ましい生活を送っているものだ。
「それにしても、立派な寝台だね」
「笑っちゃうでしょう? 私が十二の誕生日に、お父様がくれたの。手作りなのよ」
 何年も何年も乾燥させた栗の木で作った、気合いが入りまくりの寝台である。
 木目が美しく、手触りも上質だ。
「いつか、私が結婚して、旦那様と使うことを想定して作ってくれていたのよ」
 そのころから、アニャは結婚しないだろうと予想していたようだ。
「どうして? 十二だったら、初潮がなくても、別におかしくない年頃でしょう?」
「そうだったけれど、私は、ここを捨てて嫁げないから」
「どういうこと?」
「こんな山奥に、婿にきてくれる男の人なんて、いないだろうなって思っていたの」
「ああ、そういうこと」
 たしかに、麓の村で暮らす者に、ここでの生活は難しいかもしれない。何もかもが、異なる。
「イヴァンも、驚いたでしょう? 不便だし、やたら忙しいし」
「うーん。空気が薄いのは驚いたけれど、もう慣れたし、不便だとは思わないよ。別に忙しくないし。むしろ、豊かな生活なんじゃない?」
「ここの暮らしが、豊か?」
「うん。アニャもお義父様も、生き急いでいない感じがして。自然に身を任せているっていうか、なんというか。自分で言っていて、意味がわからなくなってきた」
 とにかく、実家で働いていたときとは、時間の流れがまるで異なるのだ。
「実家にいたときは、一日中ひたすら忙しくて、夜は死んだように眠ってっていう毎日だったんだ。でも、ここでは、食事を味わったり、景色を眺めたり、アニャやお義父様とゆっくり喋ったり。そういう時間があるのって、豊かだなって思うんだ」
「そんなふうに思ってくれていたんだ。よかった」
 アニャは安心したように、微笑む。
 ここで暮らす中で、彼女の笑顔だけは曇らせてはいけない。改めて、そう思った。
「お風呂に入ってくるわ。イヴァンは、先に寝ていてもいいから」
「うん、わかった」
 ここで、気づく。今日は、アニャとこの寝台で眠るということに。
 新婚夫婦には、初夜という儀式がある。
 しかし俺たちには、特に必要のないものだろう。
 先に寝ておけと言われたし。
 寝台を覗き込むと、真ん中を陣取ったヴィーテスが腹をぷうぷう膨らませながら眠っている。
 彼が真ん中にいるので、特にアニャを気にすることなく眠れそうだ。
 寝台に乗ると、ヴィーテスがパチッと目を覚ました。
「あ、起こして、ごめん」
「わふっ!」
 ヴィーテスはひと鳴きすると、起き上がる。のっそりと寝台から降りて、床の上に敷かれていた大判の布の上で再び横たわる。そのまま、眠ってしまった。
「え、ちょっと待って!」
 このままでは、アニャと二人きりで眠ることになる。ヴィーテスに寝台で寝てもいいと言っても、びくともしない。
 説得している間に、アニャが戻ってきた。
「イヴァン、何をしているの?」
「いや、ヴィーテスが、床の上で寝ようとしているから」
「ヴィーテスは、いつもそこで寝ているのよ」
「そ、そうなんだ」
 冬は暖かそうだなとか思っていたものの、一緒に眠らないようだ。寝台は誰も使っていないときだけ、占領しているらしい。
 風呂上がりのアニャは、頬を赤く染め、いつもは結んでいる長い髪をそのまま流していた。寝間着は、首から足首まで、いっさい露出がないシュミーズドレスである。
 助かったと思ったのは、ほんの数秒だった。
 ランタンの光がシュミーズドレスを透し、アニャの体のラインをこれでもかと見せてくれた。慌てて顔を逸らすも、しっかり見てしまった。
 凹凸のある胸から尻までの線に、すらりとした長い脚。
 いやいやいや、忘れろ忘れろと、呪文のように脳内で唱える。
 マクシミリニャンの顔を思い浮かべたら、気持ちがだいぶ落ち着いた。
「イヴァン、どうしたの?」
「なんでもない」
 もう、寝てしまえ。そう思って、半ばヤケクソな気分で布団に寝転がった。
「あ、そうだ」
「な、何!?」
「薬を塗りましょう」
「あ、うん。そうだね」
 サシャにボコボコにされた傷はほとんど治ったものの、雨降る夜に畑に行くまで転びまくり新しい傷を作ってしまったのだ。
 アニャにランタンを持っているように命じられる。
「大人しくしていてね」
「了解」
 アニャが目の前に座った途端、目を閉じた。これで、何も見えない。安心だ。
 けれど、目を閉じたので、服がすれる音や、アニャの息づかい、薬を塗る指先の触感を敏感に感じ取ってしまい、落ち着かない気分にさせてくれる。ある意味拷問であった。
「終わったわ」
「ありがとう、アニャ」
「どういたしまして」
 すぐさま、布団に潜り込む。アニャがランタンを消してくれたので、ホッとした。
 それも、数秒の安堵であった。
「ねえ、イヴァン。くっついて眠っていい?」
「な、なんで!?」
「髪の毛を乾かしていたら、体が冷えてしまったの」
 暖なら、ヴィーテスから取ればいいものの。
 しかし、あの巨大犬を持ち上げて布団に引き入れるのは不可能に等しい。
「いい?」
 可愛らしく聞かれたら、どうぞと答えるしかない。
 アニャは遠慮なく俺に抱きついた。
 胸が、むぎゅっと押し当てられる。
 特大の衝撃に襲われたが、奥歯を噛みしめてぐっと堪えた。
「やっぱり、温かいわ」
「よかったね」
 消え入りそうな声しか出なかった。
 その後、アニャはすぐにスヤスヤ眠る。俺はといえば、アニャが気になってなかなか眠れなかった。
 きっと男として意識されていないから、こんな目に遭うのだろう。
 特大のため息をつきつつ、長い夜を過ごした。