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養蜂家の青年は、巣箱の確認を行う
 柔らかな風が、頬を優しく撫でる。鳥の美しいさえずりも、聞こえていた。
 そっと瞼を開くと、天使のように美しい美少女が俺を見下ろしている。
 ここは、天国なのか。
 サシャに殴られて、マクシミリニャンに助けられた一連の流れは、夢の世界での出来事だったのかもしれない。だって、できすぎだろう。
 八歳の男の子が闇夜を駆け抜け、強面のおじさんに助けを求めるなんて。
 それに、実家の養蜂園が人生のすべてだった俺が、家を出るわけがない。
 そして、マクシミリニャンの娘が、天使のように愛らしいわけがないのだ。
 ぼんやりと、美少女を眺めていたら、灰色の毛に覆われた蜜蜂が飛んでくる。
 俺の目の前をぶんぶん飛んで、鼻先に止まった。雄の蜜蜂である。
 いっこうに動こうとしないので、美少女は笑い始めた。
「ふふふ、イヴァンから蜂蜜の匂いがするから、寄ってきたのね」
「ああ、そう――」
 ここで一気に意識が覚醒する。上体を上げると、蜜蜂は飛んでいった。
「アニャ、俺、寝ていた?」
「ええ、ぐっすりと」
「ごめん。眠るつもりはなかったのに」
「仕方ないわよ。高山病になりかかっていたのだし」
「高山病?」
「ええ。山の高い場所に登ると発症するものなの。山羊を使って急に駆け上がったから、なってしまったのでしょうね。ごめんなさい、こんなところに連れてきてしまって。家にくるまで、お父様がイヴァンは大丈夫だったと言っていたものだから、平気かと思っていたの」
「気にしないで。もう、息苦しさや気持ち悪さはなくなったから」
「そう。よかったわ」
 崖を駆け上がった恐怖から具合が悪くなったのかと思っていたが、そうではなかったようだ。
 立ち上がろうとしたら、腕を引かれてしまう。
「まだ、立ったらダメ。もうしばらく、休まなきゃ」
「でも、大丈夫なの?」
「何が?」
「その、仕事とか」
「別に、急いでしなければならない仕事なんて、山の暮らしにはないわよ」
「そうなの?」
「そうなのよ。ここで一番大事なのは、健康な体なの。仕事は二の次よ。元気でいなければ、生活は成り立たないわ」
「そっか……。うん、そうだよね」
 山暮らしだけではなく、どこでもそうなのだろう。生きていくうえで、健康より大事なものはない。
 働き過ぎて体調を崩す話は、街でもたまに聞く。そういう人は、自分の頑張りが体を酷使し、命を縮めている事実に気づいていないのだろう。
「私のお母様は、あまりお体が強くなかったのよ。それなのに、私を産んで命を散らしてしまったわ。自分のことは自分が一番把握しているはずなのに、わかっていなかったのでしょうね。私を産まなかったら、もっと長く生きられたでしょうに……」
「アニャ……」
 なんて声をかけたらいいのか、わからなくなる。うんざりするほど家族がいるのは、贅沢な話だったのだ。
 アニャは思い詰めた表情で、言葉を続けた。
「お父様は、きっと私を恨んでいるに違いないわ」
「それは、どうだろう? 俺は数日しか関わっていないけれど、それでも親父さんは世界で一番、アニャを愛していると思ったよ」
 でないと、山を下りて歩いてブレッド湖の街に来るまで、婿捜しなんかしない。
 アニャが生きていただけでも、マクシミリニャンにとっては救いだっただろう。その言葉を付け加えると、アニャの眦から涙が溢れた。
「本当に、そう、思う?」
「思うよ」
「そう。だったら、よかったわ」
 たぶん、アニャは長い間誰にも話せずに、気に病んでいたのかもしれない。
 マクシミリニャン本人には聞けなかっただろうし、かと言って仲のいい人にも気軽に話せる内容ではない。
 昨日ここに来たばかりの俺だからこそ、ポツリと吐露できたのだろう。
 しばし会話もないまま、ただただぼんやりする時間を過ごす。
 美しい山々の景色を見ていたら、心が洗われるような、そんな気分にさせてくれた。
 ◇◇◇
 しっかり休んだのちに、仕事を行う。まずは、リンゴの花蜜を集める木のエリアに案内してもらった。
「イヴァン、こっちよ」
 腕を引かれ、リンゴの木が群生する場所へ誘われる。
「今は花盛りで、とっても美しいのよ。見て」
「うわ、本当だ」
 リンゴの木には、美しい薄紅色の花が満開だった。その周囲を、蜜蜂が忙しそうに飛び回っている。
「きれいだ」
「でしょう。巣箱はあっちよ」
 小屋に巣箱を集めた実家の養蜂とは異なり、巣箱が地面に直に置かれていた。
「あ、そうだわ。イヴァン、あなたに、お父様の面布(めんぷを持ってきたのだけれど」
 面布というのは、帽子の縁に目の細かな網がかけられた物である。蜜蜂の接近を防ぐ目的で被るのだ。
 必要ないと首を振ると、驚かれる。
「あなたも、面布は被らないの?」
「うん。もしかして、アニャも?」
「ええ、そうよ。だって、蜜蜂はお友達ですもの。必要ないわ」
 マクシミリニャンは面布を常に被っているらしい。その昔、蜜蜂に顔を刺されたことがあったので、警戒しているのだとか。
「お父様ったらああ見えて心配性で、人一倍慎重なの」
「なんか、そんな感じがするかも」
 その辺は山奥で暮らすに必要な、感覚なのかもしれない。
「俺も、蜂蜜軟膏を塗っているから、面布を被っておこうかな」
「そうね。今日は、それがいいわ」
 アニャから面布を受け取り、被った。マクシミリニャンの頭に合わせて作った物なので、ぶかぶかだ。顎を紐で縛り、ずれないように固定しておく。
「これでよし、と」
 巣箱にゆっくり接近し、中を確認させてもらう。
 ここには、五つの巣箱が設置されていた。
 鳥の羽根で作ったブラシで巣箱に集まる蜜蜂を払い、蓋を開く。
「雄が多いかも」
「削りましょうか」
 雄の蜂が産み付けられた巣枠を取り出し、半分くらいヘラで削いでいく。
 巣枠がいっぱいになると、女王蜂は蜜蜂を連れて巣からいなくなってしまうのだ。
 蜜蜂の数が減ると、満足に蜂蜜が集められなくなる。だから、巣箱は小まめに確認しなければならないのだ。
「女王蜂の王座は、ないか」
 王座というのは、女王蜂を育てる特別な巣穴だ。蜜蜂は王座の幼虫にローヤルゼリーという特別な餌を与えて、女王蜂を育てるのだ。
「心配いらないわ。まだ、新しい女王なの」
「なるほど」
 女王蜂の寿命は三年ほど。一日に千個以上の卵を産むらしい。現在、巣箱には二万匹の蜜蜂がいる。最終的には、三倍くらいの群れに成長するのだ。
 ただ、気をつけなければならないのは、巣箱の状態ばかりではない。
 新しい女王蜂が巣内で育っていた場合も、女王蜂は蜜蜂を連れて出て行ってしまう。
 女王蜂が蜜蜂を連れて巣を出ていくことを、“分蜂”と呼んでいた。
 巣箱の中を入念に確認していたら、アニャが感心したように呟く。
「イヴァン、あなた、本当に養蜂家だったのね」
「信じていなかったの?」
「信じていなかったわけではないのだけれど……」
 アニャにとっての養蜂家のイメージは、マクシミリニャンなのかもしれない。
 いくら力仕事をしても、体つきがガッシリとならないのは血筋なのか。他の兄弟も、どちらかといえば細身だ。
「あなたみたいな人が旦那様だったら、ものすごく頼りになるわね。昨日、素直に結婚を受けておけばよかったわ」
 そうだったね、と言葉を返すと、アニャは微笑む。なんとなくだけれど、先ほどより心を許してくれているような気がした。
 喋りながらも、手は止めない。どんどん蜂の子を掻きだしていく。 
「そういえば、アニャのところでは、幼虫はどうしているの?」
「粉末にして、薬にしているわ」
「へえ」
 耳に関する不調に、蜂の子が効果があるらしい。乾燥させたのちに、細かく煎じるのだとか。
「イヴァンの家では、どうしていたの?」
「油で揚げて、親兄弟の酒のつまみになっていたよ」
「まあ! もったいない!」  
 アニャは蜂の子を革袋に詰め、逃げないようにしっかり紐で縛っていた。
 あとは害虫がいないか見て周り、巣箱に不具合がないかどうかも調べる。
「よし。こんなもんか」
「そうね」
 そろそろお昼の時間だという。
 再び大角山羊に跨がり、恐怖と闘いながら岩場を下ったのは言うまでもない。