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養蜂家の青年は、蜜薬師の娘に出会う
 山を登るのに杖を渡されたが、これはただの杖ではなかった。
 荷棒にんぼうと呼ばれ、ひと休みをするときに背負子の下に入れて荷物を支えるのだという。つまり、座らずに立ったまま休憩するようだ。
「背負子を下ろしたら、再び持ち上げるのが困難なときがある。よって、なるべく短い休憩時間のときは、下ろさないようにするのだ」
「なるほど」
 背負子の荷物はズッシリと重たく、疲れた状態ならば背負って立ち上がる行為が困難な状況になるのかもしれない。
 山で暮らす者達の知恵なのだろう。
 若葉萌ゆる木々の間を、縫うように進んでいく。
 一時間ほどなだらかな坂道だったが、だんだんと険しくなっていく。
 全身汗をかくと、途端に傷が痒くなる。汗が染みこんで気持ち悪いので、包帯を取った。
「イヴァン殿、大丈夫か?」
 正直に言うと、大丈夫ではない。
 言葉に出さなかったが、伝わってしまったのだろう。マクシミリニャンはこちらへズンズンやってきて、俺の背負子の荷物を下ろしてくれた。
「しばし休もう」
 木々が生い茂り、獣しか通らないような道である。休憩するような場所ではない。
 しかしながら、膝の力が抜けてその場に頽くずおれる。
 すぐにマクシミリニャンが体を支え、何か口に押し込んできた。
 甘い――すぐに、蜂蜜のキャラメルであることに気付く。
「それを、舌の上でゆっくりとかし、呑み込むのだ」
 疲れた体に、染み入るような甘さである。続けて、マクシミリニャンは鞄からカップと水、それから蜂蜜の瓶を取り出し、水に溶いたものを飲むようにと差し出してきた。
 不思議と、辛い気分が薄くなったような気がした。
「山で疲労を感じたときは、これが一番だとアニャが言っていた」
「そう、なんだ」
「どうだ?」
「うん、だいぶいい」
 怪我が完全に治っていないのに、無理矢理家を出たからだろう。あまりの計画性のなさに、がっくりとうな垂れてしまう。
「怪我の治療は、アニャに任せよう」
「医者からもらった薬があるんだけれど」
「皮膚が酷くただれておるぞ。これは、痛かっただろう。おそらく、薬が合っていないのではないか?」
 そういえば、ミハルが「街の医者はヤブだ」なんて言っていたのを思い出す。
 生まれてこの方、ド健康だったので医者にかかることはなかったのだ。
「なんで、ただれたんだろう。今まで、薬を飲むような病気にかかったことがなかったから、相性が悪かったのかな」
 傷口をかかないほうがいいというが、ついついバリバリと爪で引っ掻いてしまう。その瞬間、痛みに襲われるのだ。
 なんだろうか、この、痒みを訴える傷をかくと痛いという現象は。人体の謎である。
「暇を見つけて、リブチェフ・ラズの医者にかかったほうがいいのかな?」
「リブチェフ・ラズには、医者はおらぬ」
「え、そうなの!? このまま治りが遅かったら、どうしよう」
「安心せい。アニャは、“蜜薬師みつくすし”である」
「蜜薬師?」
 初めて聞く言葉だったので、思わず聞き返してしまう。
 蜜薬師――それは、豊富な蜂蜜の知識を持ち、蜂蜜を薬のように処方する存在だという。
「蜂蜜は、万能薬とも言われておる。症状ごとに蜂蜜を選び、体調をよい方向へと導いてくれるのだ」
「へえ」
 もみの木の蜂蜜は、イライラと不眠症緩和に。
 タイムの蜂蜜は、咳止めに。
 リンゴの蜂蜜は、便秘の解消に。
 一言に蜂蜜といっても、種類ごとにさまざまな効果があるようだ。
「イヴァン殿は、毎日蜂蜜を食べていたから、今まで健康だったのだろう」
「そう、なのかな?」
「自信を持て」
 言われてみれば、同じように蜂蜜を食べている家族も、滅多に風邪を引いたり、腹を壊したりしない。蜂蜜の効果だったのだろうか。
「リブチェフ・ラズの村人も具合が悪くなれば、アニャを尋ねてやってくる」
「八時間かけて?」
 マクシミリニャンはコクリと頷いた。
 患者本人でなくても、家族が相談にやってくる場合もあるらしい。
「ブレッド湖まで馬車で飛ばしたら二時間なのに、わざわざ八時間かけてやってくるんだ」
「ここの者達は、それだけ蜜薬師を信頼しているのだ」
「なるほど」
 ヤブ医者にかかるよりは、蜜薬師を頼ったほうがいいというわけか。
「どれ、水で、顔を洗おうか」
「え、いいよ」
「しかし、肌に合わない薬を塗った状態では、余計に傷が悪くなるだろう」
 まずは、肌に合わない薬を水で流したほうがいいと言われた。
 マクシミリニャンは容赦なく、頭の上から水をかけてくれた。おかげで、上半身までびしょびしょだ。
 しかし、汗をかいていたので、ついでだと思って着替える。
 さっぱりしたところで、登山を再開した。
 サラサラと、水のせせらぎが聞こえる。山には大きな川があり、生活水として使っているらしい。
 美しい川だが、感動なんてしている場合ではなかった。
 川を沿うように上がっていくと、だんだん岩場になっていく。そこを、昇っていくのだ。
 着替えたのに、すぐに汗だくになる。
 かと思えば、滝のある場所はキンとした冷気が漂っていた。汗が一気に引いて、ガクブルと震えてしまう。
 街で買った外套では、寒さなんて耐えきれない。
「これを、着られよ」
 マクシミリニャンが肩にかけてくれたのは、光沢のある毛糸の外套だ。
「これは?」
「我が家で飼育している山羊から作った、カシミアの外套である」
 異国産の山羊を皇家から贈られ、代々大切に育てているのだという。
「カシミアって、確か高級品だと言われていたような」
「そうだな。その外套は売れ残りだから、気にせずに着ておくとよい」
 お言葉に甘えて、少しの間借りておく。先ほどまで全身鳥肌が立っていたが、カシミアの外套は冷たい風を通さず、動く度に体が温まるような気がする。
 やはり、動物の毛はあたたかいのだ。
 それから、針葉樹林の木々の間を通り抜け、崖のような角度の斜面を登り、ゴツゴツした岩場を這うように登っていく。
 太陽が傾きかけるような時間帯に、ようやくマクシミリニャンの家に到着した。
「ここが、家?」
「ああ、そうだ」
 山を切り開き、人が住めるよう更地にしていた。
 大きな平屋建ての母屋と、下屋、それから離れが二つほどある。その背後にあるのは、山羊小屋か。他、炭焼き小屋や納屋、石窯に畑や、花壇、果樹などもあるようだ。驚くべきことに、ガラス張りの温室まであった。その向こう側にあるのは、湧き水だろうか。澄んだ透明の水が、サラサラと流れている。
 家の背後にある斜面は、土砂崩れが起きないよう石垣で固めている。思っていた以上に、しっかりした造りの家である。
「我は普段、離れで暮らしておる。イヴァン殿は、アニャと母屋で暮らすとよい」
「いやいや、普通、逆でしょう」
 家長であるマクシミリニャンを差し置いて母屋に住むなんて。俺が離れに住んで、母屋に親子が住めばいいのではないか。そう思ったが、事情があるらしい。
「娘に世話をかけるわけにはいかないからな。十五の春には一人前だったゆえ、話し合って、我は離れに、アニャは母屋に住むことになったのだ。食事は当番制にして、日替わりで作っておった」
「なるほど」
 ここでは、親の世話は子がするもの、という概念はないようだ。
「ところで、アニャは?」
「ふむ。いつもならば、帰ってきたのと同時に出迎えるのだがな。アニャ、アニャー!」
「はーい」
 石垣のあるほうから、元気な返事が聞こえた。
 夕日を背に、大きな何かが接近してくる。
 逆光になり、姿がよく見えない。
 けれど、彼女が何かに騎乗してやってきたことはわかった。
「クリーロ、止まって!」
「うわっ!!」
 急停止による砂埃を浴びながら、はっきりとその姿を確認する。
 まず、目に飛び込んできたのは、大きな山羊である。これが、マクシミリニャンが言っていた騎乗用の山羊なのか。
 ロバよりも大きく、美しい純白の毛並みに、見事な二本の角が生えていた。
 そして、その大山羊に跨がるのは――金髪碧眼の美少女だった。

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022.md

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養蜂家の青年は、蜜薬師の娘から治療を受ける
 アニャと呼ばれて飛び出してきた女性は、驚くほど美しかった。
 夕日を浴びた金の髪は、蜂蜜みたいにキラキラ輝いている。山の冷気を含んだ風に、サラサラとなびいていた。三つ編みをクラウンのように巻いている髪型は、どこか貴族令嬢のような華と気品がある。
 青い瞳は、子どものときに見た少女人形のサファイアと同じくらい輝いていた。
 陶器のように白くなめらかな肌はうっとりするほど綺麗で、猫を思わせるアーモンド型の目は好奇心旺盛な子猫を思わせた。
 服はこの辺りの民族衣装なのか。
 袖なしのワンピースの下にシャツを着て、腰回りは華やかな花帯で締めている。シャツの衿や袖、スカートの裾には、精緻な刺繍が刺されていた。靴は獣の革で作ったもので、靴底に滑らないよう金具が打ってある。
 大山羊に跨がり、手綱を片手で握って、もう片方の腕には山羊の赤ちゃんを抱いていた。
 その姿はさながら、物語の中から飛び出してきたような妖精のごとく。
 マクシミリニャンの娘とは思えない、美しい娘である。だが、気になることがあって、問いかけてみた。
「あの、彼女が、“アニャ”?」
「そうである」
「十九歳?」
「そうである」
 嘘だーー! と叫びたかったが、ごくんと呑み込む。
 アニャは十九歳と言うが、見た目は十三歳から十四歳くらいにしか見えなかった。
 すさまじい童顔である。年齢詐称しているのでは? と疑いたくなるほどだった。
「やだ、患者さん!?」
 アニャは大山羊から飛び降り、抱いていた山羊の子はマクシミリニャンに託す。
 目の前で見ると、さらに幼く見えた。身長なんて、俺の肩よりも低いし。
 そんなアニャは、思いがけない行動に出る。
「あなた、こっちへ来て。すぐに、治療してあげるわ」
 アニャは俺の手を握り、母屋のほうへと誘う。
「ちょっ、俺、患者じゃ――!」
「ほら、早く来て!」
 妖精のような儚い見た目に反し、アニャは力が強かった。ぐいぐい引っ張られ、あっという間に母屋へとたどり着く。
 患者ではないという訴えは、綺麗さっぱり無視された。この見た目では、患者ではないと言っても説得力がないのだろう。
 母屋は木のぬくもりと匂いがする、心地よさを感じるような空間だった。大きな出窓からは、豊かな自然が覗いていた。
 いくつかの小窓がある天井は高く、開放感がある。柱を支える梁には、束ねた薬草ハーブが、ぶら下がっていた。
 入ってすぐに居間となっており、奥に扉がある。おそらく、寝室なのだろう。
 台所や風呂などの水回りは、下屋にあるのかもしれない。
 下屋があるほうにも、扉がある。外に出ずとも、部屋の中から行き来できるような構造にしているのだろう。
 煙突が繋がった暖炉に、木々の木目を活かした机や椅子などの家具、照明代わりのランタンなども置かれていた。
 なんといっても壮観なのは、棚にびっしりと並べられた蜂蜜の瓶だろう。いったい、何種類あるものか。
 アニャは椅子を引き、ここに座るよう勧めてくれた。
 椅子には、見事な刺繍のクッションが置かれている。これに座るのは、申し訳ないと思うくらい精緻で美しい花模様が描かれている。
「どうしたの? 早く座って」
「いや、俺、山を登ってきて汗だくだし、服も靴も汚れているから、家に入ることすら悪いなと」
「気にしないで。あなたは、患者様でしょう?」
「あ、いや――」
 否定しようとしたものの、アニャは奥の部屋に走って行く。マクシミリニャンは母屋に入って来る気配はない。玄関から外を覗き込んだが、山羊の一匹すらいなかった。
「ちょっと! そこに座っていなさいと言ったでしょう!」
 戻ってきたアニャは怒りの形相でズンズン接近し、腕を掴んで椅子へと誘う。やはり、力は強かった。
「傷に菌が入って、ただれているようね。まずは、顔を綺麗に洗ってちょうだい」
 テーブルに置かれた桶の水で、顔を洗えと。汗もかいているので、しっかり洗った。
 顔を上げると、アニャがガーゼ生地で優しく拭いてくれる。
「こんなものかしら。あとは、蜂蜜を塗るから」
「は?」
「これは、アカシアの蜂蜜よ」
「いや、蜂蜜の種類を聞いているのではなくて」 
「いろんな蜂蜜で試してみたんだけれど、アカシアが一番、傷の治りが早かったわ」
 問答無用で、顔面の腫れとただれにアカシアの蜂蜜が塗られた。
 目の前に、美少女の顔が迫る。彼女は一生懸命、指先で俺の顔に蜂蜜を塗ってくれた。
 このまま外に出たら熊に襲われるのではと思うくらい、たっぷり塗られる。
 戸惑いを感じ取られたのか、アニャは優しく微笑みながら言った。
「信じられないかもしれないけれど、蜂蜜には傷を治す力があるのよ。ナイフでうっかり切ったときも、蜂蜜を塗ったらすぐに治るの」
 そんな話など聞いたこともないが、彼女は“蜜薬師”としてリブチェフ・ラズの村人からも信頼されているとマクシミリニャンが話していた。
 今は、アニャの治療を信じるしかないのだろう。
 それにしてもアニャが十九歳だと聞いて驚いたが、こうして近くにいると大人の女性だということが確認できた。
 十代前半の子どもは寸胴だが、彼女の体には確かな凹凸があったのだ。
 意識して見たわけではなかったが、頬の傷に蜂蜜を塗る際にぐっと接近したのだ。そのさいに、胸が押しつけられる。はっきり見たわけではないけれど、かなりあるように思えた。
 もちろん、あまり近づかないほうがいいと言ったが、治療中に話しかけるなと怒られてしまった。
 そんなわけで、アニャは見た目こそ幼いものの、しっかり大人の女性だったというわけだ。
 年齢詐称と疑ってしまった件について、心から謝罪した。

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023.md

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養蜂家の青年は、蜜薬師の娘と話をする
 アニャはとてもお喋りだった。こちらが何か言おうとする前に、矢継ぎ早に話しかけてくる。相槌を打つだけでも、大変だ。
「それにしても、酷い怪我ね。いったい、どうしたの?」
「兄弟喧嘩」
「まあ! ここまでしなくてもいいのに」
 こればかりは、完全同意である。
「でも、あなたは、やりかえさなかったのね」
「どうしてわかったの?」
「同じように殴り返したら、手の甲にも痣ができているはずだもの」
「ああ、そっか」
 俺をボコボコに殴ったサシャの手の甲は、おそらく痣だらけだろう。
 同じように、痛がっているに違いない。
「こんなの、兄弟喧嘩じゃないわ。ただの暴力よ」
「そうかも」
「そうかもって、暢気ね。あなた、もしかして悪くないのに、暴力をふるわれたんじゃないの?」
「さあ、どうだったか」
「なんで、顔中痣だらけにされたのに、のほほんとしているのよ!」
「性分だから」
 アニャは盛大なため息を吐いている。怒ったり、微笑んだり、呆れたり。感情表現が豊かな娘だ。
 普段、何が起こってもあまり感情を揺さぶられることはないので、少しだけ羨ましくなってしまう。
「あなた、名前は?」
「イヴァン」
「いい名前ね。私は――」
「アニャ?」
「そうよ」
 小首を傾げると、アニャの蜂蜜色の髪がサラリと流れる。恐ろしく手触りがいい髪だということが、触れなくてもわかるほどだ。
 なんとなく、不躾に見つめるのは失礼な気がして、窓の向こう側に視線を移した。
 太陽はあっという間に沈んでいく。外は真っ暗だ。この状況では、登山など困難だっただろう。満身創痍であったが、なんとかたどり着けてよかった。
「ねえ、イヴァン。あなた、いくつなの?」
「二十歳」
「ふうん。ねぇ、私はいくつに見える?」
「十九」
「本当!? 私、十九に見える!?」
 幼い顔立ちや、小柄な体型はとても十九の娘には見えない。けれど、女性的な部分はしっかり十九の娘そのものである。
 
 アニャは満面の笑みを浮かべ、俺に聞き返してくる。
「十九歳に見えるって、嘘じゃないわよね?」
「見えるよ」
「やったー!」
 十九の娘は「やったー!」などと言って喜ばないだろうが、その辺は黙っておく。
「リブチェフ・ラズにいる男が、私はいつまで経ってもお子様だって言うのよ。酷いと思わない?」
「見た目を、ああだこうだと言ってからかうのは、よくないかも」
「でしょう? 今度、会ったら、その言葉を浴びせてみせるわ」
「まあ、もめごとにならない程度にね」
 話しながらも、アニャは俺の顔に蜂蜜を塗りたくっている。顔中ベタベタだ。
「唇も、乾燥しているわね」
 そう呟くと、アニャは俺の唇に蜂蜜が付いた指先を這わせる。
「むっ!?」
「喋らないで、大人しくしていなさい」
 普段誰も触れないような場所なので、盛大に照れてしまう。綺麗に顔を洗ったばかりなのに、冷や汗もかいているような気がした。
「これでよしっと! あとは、安静にしていなさいね」
「……」
「返事は?」
「はい」
「よろしい!」
 治療が済んだのと同時に、マクシミリニャンがやってきて言った。
「風呂の準備ができた。イヴァン殿、先に入られよ」
「え、俺は別に最後でも」
「さっさと入りなさいな。その間に、食事を温めておくから」
 なんとなく、アニャには逆らわないほうがいいと思い、大人しく風呂に入ることにした。
 着替えを鞄の中から取り出して立ち上がると、再びアニャに腕を引かれる。
 
「イヴァン、案内するわ。こっちよ」
 下屋のほうにある扉を開くと、そこは台所だった。窯と暖炉が一体化した物がどんと鎮座している。調理台や食器棚はあるが、食卓はない。ここで料理を作り、母屋に持って行って食べるのだろう。
 さらに奥にある扉の向こう側に、風呂があった。窯の熱を利用して、温めるものらしい。
 先ほどまでパンでも焼いていたのか、香ばしい匂いが漂っていた。
 木製の浴槽には、ホカホカ湯気が漂う湯で満たされている。
「蜂蜜湯にしてあげるわ。ゆっくり眠れるから」
「蜂蜜湯?」
 アニャはテキパキと動き、蜂蜜の瓶と何かの小瓶を持ってきた。
「それは?」
「ラベンダーの蜂蜜と精油よ」
 皿にラベンダーの蜂蜜と精油を混ぜ、それを湯に溶かす。ふんわりと甘い蜂蜜とラベンダーの香りが漂ってきた。
「じゃあ、ごゆっくり」
「ありがとう」
 服を脱ぎ、天井からぶら下がっているカゴに放り込む。
 蜂蜜湯を被り、石鹸で体を洗った。
 ブクブクと泡立つ石鹸から、蜂蜜の匂いを感じる。よくよく見たら、石鹸はほのかに蜂蜜色だ。まさか、石鹸まで蜂蜜を使っているとは。
 体を洗い流すと、浴室の扉が開かれた。
「イヴァン、髪を洗ってあげるわ!」
「うわぁ!!」
 まさかのアニャの登場に、目を剥く。
「な、なんで!?」
「せっかく蜂蜜を顔に塗ったのに、お湯を被ったら落ちてしまうでしょう? 私が、顔にかからないように、洗ってあげるわ」
「いいよ!」
「遠慮しなくてもいいから」
 決して、遠慮ではない。それなのに、アニャは腕まくりをしながらズンズン浴室に入り、たらいを手に取る。
「すぐに終わるから、大人しくしていなさい」
 多分、拒絶しても聞いてくれないだろう。仕方がないので、近くにあった手巾で股間を隠した。たぶん、もう見られているだろうけれど……。
 その後、アニャはわしわしと頭を洗ってくれた。ほどよい力加減で、思っていた以上に気持ちよかった。ついでに、背中も流してくれる。
「痛くない?」
「痛くない。ちょうどいい」
「よかったわ」
 誰かに体を洗ってもらうことが、こんなに気持ちいいなんて知らなかった。
 いつも以上に、さっぱりとした気分になる。
「アニャ、ありがとう」
「どういたしまして。あとはゆっくり、お湯に浸かりなさいね」
 湯の中では、百を数えるまで上がったらダメだと言われた。
 完全に、小さな子どもと同じ扱いであった。 

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024.md

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養蜂家の青年は、蜜薬師の娘が作った夕食を食べる
 風呂から上がり、用意されていた綿の布で体を拭く。
 服を着て、浴室から出るとアニャが立ちはだかるようにいた。
「大人しく、しゃがみ込みなさい」
「え、何?」
「髪、濡れているでしょうが」
 アニャの手には、布が握られていた。髪の水分をきちんと拭ってから、母屋に戻るように言いたいのだろう。
 しゃがみ込み、布を受け取ろうとしたが、アニャは思いがけない行動に出る。なんと、俺の髪をわしわしと拭い始めたのだ。まるで、洗った犬を拭いてやる飼い主の如く。
 容赦なく、拭いてくれた。
「自分で、できるんだけれど……」
「自分でできる人が、髪から水滴をポタポタ垂らしてやってくるわけないでしょうが」
「その通りで」
「でしょう? よく水分を拭っておかないと、風邪を引くのよ」
 台所では、いい匂いが漂っていた。鍋がぐつぐつ煮立つ音も聞こえる。
 途端に、腹がぐーっと鳴ってしまった。
「あなた、お腹が空いているの?」
「まあ、それなりに」
「準備するから、母屋で待ってて」
 手伝うことはないかと尋ねたが、患者がする仕事はないと言い切られてしまう。
 完全に、患者扱いである。
 どうやら、マクシミリニャンはアニャに結婚についての話をしていないようだった。いまだ、アニャは俺を患者だと思っている。
「あの――」
「まだいたの? いいから、いい子で待っていなさい」
「いい子って……、そういう年じゃないんだけれど」
「言い訳はしない」
 背中をぐいぐい押され、台所から追い出されてしまった。やはり、彼女は消えてなくなりそうな外見に反し、力が強い。
 そんなことはさて措いて。
 母屋にマクシミリニャンがいると思っていたが、誰もいない。窓を開いて外を覗き込むと、離れに灯りが点いていた。もしかして、「あとは若い二人で」などと思っているのだろうか。結婚について、しっかり説明していて欲しかったのだけれど。
 
「ん?」
 窓の外枠に、鐘が取り付けられていた。用途はなんだろうか?
 訪問者がやってきたときに、鳴らすとか? よくわからない。
 ジッと観察していたが、強い風がピュウと吹く。耐えきれなくて、窓を閉めた。
 春とはいえ、夜は酷く冷え込む。
 暖炉のほうを見てみたら、火が小さくなっていた。薪をいくつか追加しておく。
「あら、ありがとう」
 アニャは両手に料理を持ってやってくる。どちらか持とうかと手を差し伸べたら「両方のお皿でバランスを取っているから、止めて」と怒られてしまった。
「あなた、なんなの? お手伝いしたがりさんなの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけれど」
「だったら、安静にしていなさい。でないと、治るものも治らないわよ」
 アニャはテキパキと、夕食の準備をする。
 もしも、実家でその様子を眺めているだけだったら、義姉や母に「手伝え!」と怒られていただろう。
 下僕精神みたいなのが、骨の芯まで染みこんでいるのかもしれない。彼女が忙しそうにしているのを見ていると、酷く落ち着かないような気分になる。
 俺はアニャの言葉を借りたら“お手伝いしたがりさん”なのかもしれない。
 何度も行き来している様子に耐えきれなくなって、ついにはアニャに声をかける。
「ごめん、俺、お手伝いしたがりさんなんだ。何か、手伝わせて」
「は?」
 アニャはポカンとした表情で、俺を見る。
「誰かが働いているのを、見ていることができない性分なんだ」
 そう答えると、アニャは意味を理解したのか、突然笑い始めた。
「やだ、あなたって、変な人!」
「変な人で結構。あの鍋を、母屋に持って行けばいいの?」
「任せて、いいの?」
「いいの」
「じゃあ、お願いするわ。ものすごく重たいから、気を付けてね」
 鋳鉄製のどっしりとした鍋を、母屋に持って行く。鍋敷きの上に置き、カトラリーを並べたら夕食の支度は調ったらしい。
 カゴに山盛りにされた蕎麦のパンに、牛肉と野菜をやわらかくなるまで煮込んだシチュー“グラース”、鮭とジャガイモ、チーズを重ねて焼いた“ギバニッツア”、炙ったソーセージ“クランカ・クロバサ”など。豪勢な夕食だ。
 木のカップに注がれているのは、黄金の蜂蜜酒だろう。
「これでよしっと。お父様を呼ばなきゃ」
「呼んで来ようか?」
「大丈夫よ。ここから呼べるから」
 離れに向かって叫ぶというのか。そこそこ離れているので、喉が嗄れそうだ。などと思ったのは一瞬で、アニャは窓を開いて外枠に取り付けられていた鐘をカランカランカランと、三回鳴らした。すると、マクシミリニャンがやってくる。どうやらあの鐘は、離れにいるマクシミリニャンを呼ぶためのものだったようだ。
「おお、いい匂いがする」
「今日はイヴァンがいるから、ソーセージを焼いたわ」
「そうであったか。いただこうぞ」
 食卓を囲み、祈りを捧げる。
 この世の恵みに感謝し、犠牲になった生きとし生けるものに感謝を。
 マクシミリニャンが食べ始めたのを確認してから、アニャも食べ始める。
「イヴァン、あなたも、たくさん食べてね」
「ありがとう」
 誰かとこうして食卓を囲むなんて、いつ振りだろうか。
 いつも、部屋の隅だったり、外だったり。時間がないときは花畑に向かいながら食べるときもあった。行儀が悪いのは百も承知だが、あの日は巣箱周辺にスズメバチの大群がやってきたとかで仕方がなかったのだ。
 まずは、スープをいただく。
「あ、おいしい」
「本当? よかったわ」
 アニャの料理は、どれもおいしかった。一つ一つ感想を言っていたら、アニャの手が止まっていたことに気付く。
「ごめん。食事の邪魔をして」
「いいのよ。お父様はいつも黙って食べるから、おいしいか、おいしくないかわからなかったの」
「アニャの料理は、お店が出せそうなくらい、おいしいよ」
「あら、そう?」
 アニャの白い頬が、真っ赤に染まる。どうやら、口数の少ないマクシミリニャンは娘を褒めずに育てたらしい。こんなおいしい料理を食べておきながら、感想を言わないなんて。
「ねえ、イヴァン。あなた、しばらくここにいなさいよ。暴力をふるう兄弟のもとに帰るなんて、心配だわ」
 アニャがそう言った瞬間、マクシミリニャンの動きが止まった。口の中にあったものをごくんと飲み込み、気まずそうな表情で俺を見つめる。
 その顔は、なんだ。雨の日に捨てられた、子犬のような表情は。
 もしかして、俺に結婚について説明しろと言いたいのか。
 アニャはマクシミリニャンがブレッド湖の街に、婿を探しに行ったことも知らないのかもしれない。
「二人とも、どうしたの?」
 誰も何も答えないので、アニャは怪訝な表情となる。
 マクシミリニャンは、天井を仰いでいた。どうやら、説明するつもりはないらしい。
 しょうがないので、俺が言うしかない。
「アニャ、俺は、君の婿として、ここに来たんだよ」
「は!?」
 アニャは瞳が零れ落ちそうなくらい、目を見開いていた。

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025.md

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養蜂家の青年は、蜜薬師の娘に結婚についての話をする
「どういうことなの? ねえ、お父様……!!」
 アニャは人殺しでも見たような形相で、マクシミリニャンに問いかける。
 マクシミリニャンはいまだ、腕を組み天井を仰いでいた。
 娘の結婚は、父親が決める。だから、堂々としていればいいのに、なぜこのような不可解としか言えない態度に出るのか。
「私、結婚しないって言ったでしょう!? 約束したわよね、ここで、お父様と二人、命が尽きるまで暮らしましょうって」
「うむ、しかし」
「しかしじゃないわよ!!」
 アニャの一喝でマクシミリニャンは萎縮し、ますます言葉を失ってしまったようだ。
 どうしてこうなったものか。
 どうやら、アニャは結婚する気なんてないのに、マクシミリニャンが勝手に判断して俺を連れてきてしまったようだ。
 アニャの厳しい追及は続く。
「もしかして、売りに出した山羊の様子を見に行ったついでに、知り合いの家を訪ねるという話も嘘だったの!?」
 アニャに責められる度に、マクシミリニャンは涙ぐんでいく。あと少しで、眦に浮かんだ涙が零れてしまいそうだった。
 アニャの怒りの矛先は、俺にも向けられた。
「イヴァン、あなたも、どうしてこんなところにまでついてきたのよ!!」
「俺は、行く当てがなかったから」
「あ……そう、だったのね。ごめんなさい。でも、本気じゃないんでしょう?」
「本気じゃなかったら、こんなところまで来ないけれど。アニャがいいと言えば、結婚するつもりだった」
 そう言った瞬間、アニャの顔は真っ赤になった。
 なんて初心な娘なのか。こんな、顔面ボコボコの男に結婚を求められて、赤面するなんて。きっと、同じ年頃の異性と関わることなく、暮らしていたからだろう。
「で、でも、私は、私は――お父様から、聞いたでしょう?」
「初潮がきていないって話?」
 アニャは一瞬泣きそうな表情となったが、すぐに俯いて顔が見えなくなる。
「私は、子どもを産めないから、結婚、できないの……」
「結婚って、子どもを産まなきゃしたらダメなの?」
「え?」
「誰が決めたの?」
「そ、それは……」
「結婚は、子どものためにするわけじゃないと、俺は思う」
「だったら、なんのために、結婚するのよ」
「他人と、家族になるため」
 マクシミリニャンよりも先に、アニャの眦から涙が零れる。真珠のように、美しい涙だった。
 ここで、マクシミリニャンは腹を括ったようだ。アニャに深々と、頭を下げる。
「アニャ、すまなかった。約束しておったが、どうしても、一人残ったアニャのことを考えると、いてもたってもいられなくなって……」
「お父様は、勝手だわ。私は、一人で生きる決意をしていたのに」
「すまない」
 アニャは手で顔を覆い、泣きじゃくっているようだった。だが、ピタリと動きを止め、涙を拭う。
 顔を上げたときには、先ほどのような弱々しい涙は見せなかった。
 それどころか、淡く微笑みながらこちらを見つめる。
「イヴァン、ありがとう。あなたは、とってもいい人だわ」
「それはどうも」
「だから、私みたいな女と、結婚したらダメ」
 予想外の反応である。マクシミリニャンはオロオロしながら、俺とアニャの顔を交互に見ていた。
「リブチェフ・ラズにも、婿を探している娘達がいるだろうから、紹介してあげるわ」
「でも、俺はアニャと結婚するために、ここに来たのに」
「ダメ。絶対にダメよ」
「いや、なんていうか、俺みたいな顔面ボコボコ男と結婚したくないっていうのならば、潔く山を下りるけれど」 
「そうじゃないわ。別に、顔面ボコボコだから、遠回しに結婚を断っているわけではないのよ」
「だったら、なんで?」
 アニャは目を泳がせながら、結婚できない理由を語り始める。
「あなたみたいないい人は、私の夫になるにはもったいないわ。別の娘と結婚して、優しいお父さんになるべきなのよ。そのほうが、きっと幸せよ」
 俺と結婚したくないから、言っているわけではないようだ。嘘を言う娘には思えない。顔面が気に食わなかったら、はっきり伝えているだろう。
 だったらと、立ち上がって鞄の中から革の小袋を取り出す。
「これ、蕎麦の種なんだけれど、謂われを知っている?」
「新しい土地で蕎麦の種を蒔き、三日以内に芽がでたら、そこは種を蒔いた者にとって、相応しい土地になるってやつ?」
「そう。俺はこの山に、蕎麦の種を蒔く。もしも、三日以内に芽が出たら、ずっと死ぬまでここにいる。生えなかったら、出て行く」
「そんな……蕎麦の種に、人生を託すなんて」
「そうでもしないと、アニャは俺をここに置いてくれないだろう?」
「だって、ここにいても、ただ老いて、朽ちるだけだわ」
「そうは思わない。けれど、アニャの気持ちも尊重したい。だから、俺は蕎麦の種を蒔く」
 はっきり主張したら、アニャはこれ以上何も言わなかった。
 この先、どうなるかはよくわからない。
 アニャがはっきり拒絶している以上、いないほうがいいのかもしれないとも思う。
 
「蕎麦の種を、こっそり掘り返したらダメだからね」
「そんなこと、しないわよ」
 強気なアニャが戻ってきたので、ホッとした。
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