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養蜂家の青年は、月明かり差し込む部屋で蜜薬師の娘と会話する
 この日は、客人用の離れを借りて休ませてもらう。
 離れは暖炉に寝台、脇にサイドテーブルがあるだけの、シンプルな部屋である。
 灯りを点していないのに窓から月明かりが差し込むので、ランタンを点けずとも十分過ごせる。
 寝台に腰掛け、キョロキョロ見渡していたら、アニャがやってきた。
「これ、蜂蜜水とちょっとしたおやつよ。それから、ランタンも。必要だったら、点けてちょうだい」
「ありがとう」
 アニャはそのまま立ち去らずに、こちらを見ている。
「どうかした?」 
「あ――えっと、少しだけ、話してもいい?」
「いいよ」
 アニャは腰に手を当て、俺を見下ろしながら話し始めようとした。
「ちょっと待って。座って」
 隣をポンポン叩きながら言うと、アニャは素直に腰掛ける。気恥ずかしいのか。もじもじしながら、頬を真っ赤に染めていた。
「ごめんなさい。あまり、同じ年ごろの異性と、話したことがなくて」
「リブチェフ・ラズにいる男は?」
「あの人は、私を一方的にからかってくるだけ。童顔とか、嫁ぎ遅れとか、山女とか。まともな会話はしていないわ」
「酷いね」
「でしょう? 自分だって、二十歳を過ぎても結婚していないくせに、何を言っているのかしら」
「あー……」
 おそらくだが、その男はアニャのことが好きなのだろう。仲良くなりたくて声をかけているのだろうが、内容が最悪過ぎる。
「それで、話したいことは?」
「ああ、そう。あなた、本当にいいの?」
「何が?」
「しらばっくれないで。私との、結婚よ」
「いや、まだアニャと結婚するか、決まっていないし」
 運命は蕎麦の芽にかかっている。明日、アニャと一緒に種を蒔く予定だ。
「仮に決まったときのことを話しているのよ」
「そういう意味ね。さっきも話したけれど、俺は行く当てもない男だから」
「でも、私じゃなくても……。イヴァン、あなた、子どもが欲しくないの?」
「いや、俺は子どもの面倒を見れるほど、甲斐性があるとは思えないし」
 素直に告げると、アニャは目を眇めて俺を見る。小さな声で「確かに」と呟いていた。あまりにも素直な反応に、笑ってしまう。
「あっ、笑ったら、顔が痛い」
「安静にしているように、言っていたでしょう?」
「だって、アニャが笑わせるから」
「私がいつ、笑わせたのよ」
「うん、そうだね」
 アニャはよほど、子どもが産めない体であることを気にしているのだろう。気の毒な話である。
「もしも蕎麦が芽吹いて、結婚できるものだとしたら、俺はアニャを幸せにすることを人生の目標にしようと思っている」
「イヴァン……ありがとう」
 アニャはウルウルとした瞳で、俺を見つめていた。庇護欲をかき立てられるような思いとなったが、肩に触れようとした瞬間、脳内にマクシミリニャンの顔が浮かんだ。
 伸ばした手はそっと下ろし、ぎゅっと握りしめて拳を作る。
「アニャは、どうなの? 父親が選んだ相手と、結婚するなんてイヤじゃないの?」
 聞いた途端、アニャは耳まで真っ赤になる。大丈夫なのか、心配になるほど羞恥心が顔に出ていた。
「あなたは優しいし、たぶん、働き者だろうし、嘘は吐かない人だと思うから、これ以上ない結婚相手だわ」
「そう。よかった。でも、俺がいい人ぶっていたら、どうするの?」
「あなたが、いい人ぶっているですって? そんな器用なことを、できる人には見えないわ。イヴァン、あなたはきっと、死ぬほど不器用な人なのよ」
「そう、かもしれない」
「でしょう?」
 ほんの数時間しか話していないのに、人となりをアニャに見抜かれていたようだ。
「もっと、お話ししたいって思った男の人は、イヴァンが初めてよ。もしかしたら、あと三日間しかいないかもしれないけれど、とても嬉しいわ」
「アニャ……」
 月明かりが、彼女の横顔を照らす。なんて、美しいのか。思わず見とれてしまった。
「アニャ、俺も――」
 言いかけた瞬間、窓の外に丸太を片手で担いだマクシミリニャンが通りかかった。
 通り過ぎる際、高速でこちらをチラ見していった。我慢できずに、噴き出してしまう。
 こんな時間に、丸太を持って庭で作業するわけがない。きっと、俺たちの様子を確認しにきたのだろう。
「イヴァン、どうしたの?」
「いや、おやじさんが通りかかったから」
「まあ!! お父様ったら、覗きに来たの!?」 
「たぶん、アニャがなかなか母屋に戻らないから、心配しているんだと思う」
「私は、子どもじゃないのに! それに、イヴァンはお父様が婿として連れてきたのに、どうして監視するようなことをするのよ!」
「まだ正式に結婚するわけではないから」
 顔も口の中も痛いのに、笑ってしまう。同じ日にこんなに笑ったのは、初めてだろう。
「俺、ここに来て、よかった」
 そう呟くと、アニャは淡く微笑んでいた。
 こんなに楽しいところならば、ずっといたい。すべては、蕎麦の芽次第なんだけれど。
「じゃあ、そろそろ解散する?」
「そうね」
 アニャを、母屋まで送る。離れと母屋はそこまで離れていないが、山なのでどこに熊が出てもおかしくない。
 心配なので、きちんと部屋に入るまで確認しなければ。
「アニャ、また明日」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 アニャは部屋に戻らず、こちらを見つめている。
「ん、どうしたの?」
「あ――ごめんなさい。幼いころ、おやすみの挨拶をするときに、お父様が頬にキスをしてくれたから。やだわ。もう何年も、していなかったのに」
 つまり、アニャはおやすみのキス待ちをしていたわけだ。
 さすがに、結婚もしていない相手にキスなんてできない。
「ゆっくり休んで」
「イヴァン、あなたも」
 アニャと別れ、離れに戻る。
 扉を開き中へ入ると、腕を組んで寝台に座るマクシミリニャンの姿が目に飛び込んだ。
 悲鳴を上げそうになったのは、言うまでもない。

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027.md

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養蜂家の青年は、山羊の世話を行う
 マクシミリニャンは俺の顔を見るなり、「待っておったぞ」と声をかける。
 どうやら、アニャだけでなく、マクシミリニャンも話があるようだ。
 隣に腰掛けたが、黙ったままだ。
「何しに来たの?」
「謝罪を、しようと思い……。その、アニャはあの通り、結婚する気はなく……」
「ああ、そのこと」
 マクシミリニャンはこの先アニャを独り残していくことに、危惧を感じていた話は事前に聞いていた。
 黙って連れてきていた件に関しては問題だが、そうでもしないとアニャが結婚を受け入れなかったのだろう。
「アニャは絶対に、そなたを気に入ると確信していた。だが、イヴァン殿には、事前に説明しておくべきだった」
「アニャにもね」
「う、うむ……」
 マクシミリニャンは反省しているようだったので、これ以上責める気にはならない。
「イヴァン殿、蕎麦の芽が生えなかったら、本当に、ここを出て行くつもりか?」
「まあ、そういう約束だから」
 そう答えると、マクシミリニャンは途端に悲しげな表情になる。
「蕎麦の芽が生えなかったら、リブチェフ・ラズで仕事でも探すよ。それでたまに、アニャの顔を見に来るから」
「イヴァン殿、感謝する!!」
 マクシミリニャンは俺を力強く抱擁した。体がミシッと悲鳴を上げたので、力いっぱい押し返して離れる。
「それで、アニャは、どうだ?」
「どう、というと?」
「愛らしいとか、可愛らしいとか、愛いとか、何か、感想があるだろう?」
 それ、全部同じような意味じゃん。なんていう指摘はさて措いて。
「明るくて元気な、いい娘(こ)だと思う」
 ただ、見た目は完全に十三から十四歳くらいの少女だけれど。その点は、目を瞑る。
「結婚相手として、申し分ない相手だよ」
「それはよかった。この先、我は安心して逝ける」
 安堵したように呟くマクシミリニャンの背中を、励ますように叩いてあげた。
 ◇◇◇
 朝――目覚める。まだ外はまっくらだが、そのうち太陽は昇るだろう。 
 服を着替え、ナイフと石鹸、歯ブラシ、ランタンを持って出る。
 外は風がごうごうと激しく吹いていた。真冬だと思うほど寒い。
 たらいに湧き水を掬う。山の水は、キンとするほど冷たい。
 駆け足で下屋の勝手口から浴室に入る。洗面台にたらいに入った水を置き、鏡の横にランタンを設置した。
 鏡を覗き込むと、顔のただれがなくなり、赤みも引いているのに気付く。顔がボコボコなのは相変わらずだが、痛みはずいぶんと薄くなっていた。
 本当に、蜂蜜は傷の治癒に効果があるようだ。驚いた、医者の薬より効くなんて。
 台所のほうからも、物音が聞こえる。アニャが、朝食の準備をしているのだろうか。
 顔を洗って髭を剃り、歯を磨いたあと、台所の扉を開いた。
「おはよう、イヴァン殿」
「うわっ!!」
 にっこり微笑みながら挨拶をしたのは、フリフリのエプロンをかけたマクシミリニャンだった。
 なぜここに? と思ったが、昨晩、アニャが「食事はお父様と代わる代わるしているの」と話していた。今日は、マクシミリニャンが朝食を準備する番なのだろう。
 それよりも、気になる点を尋ねてみた。
「そのエプロン、何?」
「ああ、これか? 以前、リブチェフ・ラズの婦人会でアニャがもらってきたものなのだが、使わないというので、我が使用している」
「……」
 アニャがかけたら、さぞかし可愛かっただろう。マクシミリニャンの筋骨隆々の体に、フリルたっぷりのエプロンをかけた姿は違和感としか感じない。
「何か、手伝うことはある?」
「もうすぐアニャが起きてくるから、家畜に餌を与えてくれ」
「了解」
 母屋のほうに行くと、アニャがやってきた。
「イヴァン、おはよう」
「おはよう、アニャ」
 アニャはずんずんと接近し、俺の顔を覗き込んだ。
「うん。昨日よりはいいわね」
「おかげさまで」
「どういたしまして。今日は、軟膏を塗ってあげるわ」
「ありがとう」
「それにしても、早いわね。どうしたの?」
「家畜の餌をやるっていうから、手伝おうと思って。俺、お手伝いしたがりさんだから」
 アニャが「安静に!」と言う前に、先制攻撃をしておく。すると、アニャは眉尻を下げながらも、噴きだし笑いをしてしまう。
「わかったわ。こっちに来て」
 まずは物置に、飼料を取りに行く。アニャはランタンを持たずとも、薄暗い中をずんずん進んでいた。
「春は、小麦と外皮を中心に、細麦を与えるのよ。毎日放牧もしているのだけれど、餌を与えていなかったら、山の木々が丸裸になってしまうから」
「なるほどね」
 まずは、乳用の山羊から。小屋の中には、子山羊がいて、高い声で「めえめえ」と鳴いていた。
 ここにいる山羊は、よく知る白い毛並みの山羊である。
「子山羊はもうすぐ草や葉を食べられるようになるから、その辺りからお乳を搾るの」
 アニャは説明しながらも、山羊にテキパキと餌を与えていた。
 知り合いの山羊は、我先にと暴れるようにして餌を食べていたが、ここの山羊たちはのんびりしている。怖いという印象は、薄くなっていった。
「餌を食べている間に、掃除をするわよ。イヴァンは、水を汲んできて」
「はいはい」
 山羊は地面に落ちた餌は食べないくらい、綺麗好きらしい。山羊の飼育でもっとも重要なのは、過ごしやすいよう清潔な環境を作ってやることなんだとか。
 小屋に敷いてある藁ごと、糞などを回収する。これらは、肥料にするようだ。
「山羊の糞はコロコロしていて、他の家畜に比べて手入れがしやすいのよ」
「確かに」
 牛や豚の糞は水分を含んでいて、臭いも酷い。山羊の糞も臭いけれど、牛や豚に比べたらマシだ。
 小屋に水を流し、しばし乾燥させる。
 山羊は、食事を終えたあとは山に放つらしい。日が暮れる前に、自主的に戻ってくるようだ。
 続いて、肉用の山羊の小屋を掃除する。
「あ、こっちの山羊は、耳が垂れているんだ」
 毛並みは茶色やブチ、褐色など、さまざまな色合いがある。繁殖させて、リブチェフ・ラズに売りに行っているらしい。
 隣の小屋にいるのは、カシミア山羊とアンゴラ山羊である。共に、毛の採取を目的とした山羊だ。
 カシミアの毛は真っ直ぐで、どこかおっとりした顔つきをしている。
 アンゴラの毛はちぢれていて、目元も毛で覆われていた。
 共に、この辺りでは見かけない品種である。昨日、マクシミリニャンが皇家より贈られたと話していた。
 最後は昨日見かけて驚いた、騎乗用の山羊である。
 近くで見ると、よりいっそう迫力があった。
 一頭は白く、もう一頭は黒い。
「これ、本当に大きいね」
「大角山羊っていう山羊なの。この辺りに、生息しているわ。崖を駆け上るのが得意で、どこまでも登ってくれるのよ」
「そうなんだ」
 通常は騎乗できるような種類ではないものの、マクシミリニャンが独自に伝わる調教で、騎乗できるように躾けたものらしい。
「白い子が、クリーロ、黒い子が、センツァ。奥にいる灰色の赤ちゃんが、メーチェよ」
「翼(クリーロ)に、影(センツァ)に、剣(メーチェ)、ね」
 メーチェはこの春、生まれたばかりらしい。赤ちゃんだというが、乳用山羊の成獣と同じくらいの大きさである。ここからさらに、大きくなるのだろう。
 山羊の世話が終わったころには、太陽が地平線から顔を覗かせていた。
 一日が、始まろうとしている。

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養蜂家の青年は、蜜薬師の娘と蕎麦の種まきをする
 飼育しているのは、山羊だけではなかった。
 鶏と犬もいた。
 鶏は黒い羽を持つ品種だった。十年から十五年も生きるらしい。卵と肉を目的に飼っているようだ。
 犬は母屋にいた。アニャの部屋で飼っているという。小型犬かと思いきや、熊みたいにでかい犬が出てきたので驚いた。
 毛量の多い犬で、茶色と黒の混じった毛並みをしている。
 ツヤツヤと輝く毛は、アニャが丁寧に手入れをしているのだろう。
「この子は、ヴィーテス。護畜犬なんだけれど、おっとりしていて、向いていなかったみたい。異国人が犬鍋にして食べたいって言っているところを、私が飼うって引き取ってきたのよ」
「そうだったんだ」
 初対面の俺に対して吠えもせず、それどころか頭を撫でただけでお腹を見せていた。
 護畜犬とは思えないほど人懐っこい。
 普段は家で眠ったり、庭をのそのそ散歩したりしているのだという。驚くほど、普通の愛玩犬であった。
 夜は、アニャを温めてくれるらしい。布団に入れて、一緒に寝ているのだとか。
 それにしても、異国では犬を鍋にして食べる文化があるとは……。
「お前、犬鍋にならなくて、よかったな」
「わっふ!」
 そんなことを話しかけながら、朝食である牛の骨付き肉を与えた。
 ◇◇◇
 マクシミリニャンお手製の朝食を囲む。
「たんと食べるがよい!」
 食卓には、昨日アニャが焼いた蕎麦パンに昨晩の残りのスープ、蜂蜜に、スライスしたハムにオムレツが並べられている。
 オムレツは綺麗な形に焼き上がっている。剛腕のマクシミリニャンが作ったとはとても思えない。
 祈りを捧げたのちに、いただく。
「イヴァン、これ、オレンジの花の蜂蜜なの。食べてみて」
 山には百年ほど前にオレンジの木が植えられ、蜂蜜を採っているようだ。寒暖差の激しい気候から、甘い果実を生らすことはないが、おいしい蜂蜜は採れるらしい。
 蕎麦パンに塗り、頬張る。
「――わっ、おいしい」
 ほのかな酸味があり、あっさりしている。パンとの相性も抜群だ。
「ヨーグルトに垂らしても、おいしいのよ。もう少ししたら、山羊のお乳が取れるから、作ってあげるわ」
「楽しみにしている」
 ヨーグルトが作れるまで、ここにいるかは謎であるが。深く突っ込まないで返事だけしておいた。
 マクシミリニャン特製の、オムレツも絶品だった。卵はとろとろ半熟で、トマトソースに絡めて食べる。パンの上に載せて食べても、おいしかった。
 ハムは塩けが強かったが、これから汗を掻いて働くのでちょうどいいだろう。
 しかし、アニャは口にした途端、マクシミリニャンに抗議する。
「お父様、これ、スープ用のハムよ」
「む、そうであったか?」
「塩辛いでしょう?」
「言われてみれば、そうだな」
 どうやら、塩けの利いたハムではなく、スープ用に塩っ辛く仕上げたものだったようだ。
「イヴァン、あなた、塩辛くなかったの?」
「ちょっと塩けが強いなとは思ったけれど、こういうものだと」
 アニャはこめかみを押さえ、深いため息を返す。
「お父様は、たまにこういうことをやらかすの。もしも何か気づいたら、指摘してあげて」
「はい」
 ここは従順に、頷いておいた。
「今日は、畑に蕎麦の種を植えに行って――それから蜂の巣箱を見に行くわ」
「ならばアニャ、イヴァン殿に、大角山羊の乗り方を教えてやってくれ」
「いいけれど、大丈夫?」
「あまり、大丈夫ではないかも」
 馬の乗り方でさえ知らないのに、山羊に乗れというのは無謀ではないか。
「山羊も、嫌がらない?」
「大丈夫よ。あの子達は、優しい子だから」
 不安でしかないが、山羊が背中に乗せてくれることを祈るしかない。
「じゃあ、蜜蜂との付き合い方も、教えなければいけないわね」
「アニャ、イヴァン殿は養蜂家だ」
「え、イヴァンは養蜂家なの!?」
 アニャは瞳を見開き、俺を見る。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「言っていないわ!」
 マクシミリニャンは俺が話していると思い込み、俺はマクシミリニャンが話していると思っていたようだ。一番ダメなパターンである。
 共に、アニャに謝罪した。
「俺がしていたのは花から蜜を採る養蜂なんだ。野山の木々から蜜を採る養蜂は初めてで、いろいろ教えてもらうことになるけれど」
「大丈夫よ。蜜蜂との付き合い方を知っていたら、私が教えることは何もないわ。ほとんど、街のほうで行われている養蜂と、同じはずだから」
「だったら、よかった」
 野草茶を飲みながら腹を休めたあと、アニャと共に畑に移動した。
 マクシミリニャンは、山のいたる場所に仕掛けている罠を見て回るらしい。
 罠猟で、獣肉を得ているようだ。
「お父様、行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
「気を付けてね」
 アニャの言葉に、マクシミリニャンは背中を向けつつ手を振る。
「さて、私達も、仕事をしましょう」
「そうだね」
 農具を持ち、移動する。
 敷地内の石垣を登った先に、畑を作っているらしい。
「ここよ」
 想定よりもかなり広い畑があった。春はここで蕎麦とトマト、カボチャにズッキーニ、パプリカ、ラディッシュにカブなどの夏に収穫する野菜を育てるらしい。
「蕎麦は来週蒔くつもりだったけれど、ついでにやっちゃうわ。イヴァンの蕎麦は、一番端のほうに蒔いてくれる?」
「わかった」 
 蕎麦は春蒔きと秋蒔きの、年二回育てることができる。
 この辺りでは、春に種を蒔いているようだ。
 我が国の蕎麦の歴史は長い。十四世紀頃に伝播(でんぱし)たと言われている。
 小麦と大麦の間に育てられることから、農民の間で瞬く間に広がっていったらしい。
 蕎麦はパン作りに使われたり、パン粉代わりにまぶされたり。練って湯がいたものを食べたりと、料理の幅も広い。国民食と言っても過言ではないだろう。
 革袋の種を蒔き終えると、アニャの種蒔きも手伝う。
 たっぷり水を与えたら、あとは芽吹くのを待つばかりだ。
「イヴァン、あなた、手持ちの種を全部植えてよかったの?」
「持っていても、仕方がないし」
「そう」
 しばし、種を植えた畑を眺める。
 蕎麦は種蒔きから発芽まで、だいだい早くて一週間くらいか。
 三日でというと、奇跡に近いのかもしれない。
「アニャ、蕎麦の芽は、三日以内に出てくると思う?」
「さあ?」
 神のみぞ知るものなのだろう。しかし、アニャは言葉を付け加える。
「でも、芽が出てきたら、いいわね」
「うん」
 ここが俺にとって永遠の土地となるかは、蕎麦の芽次第。
 あとは、三日間待つばかりだろう。
 ◇◇◇
 種蒔きが終わったら、大角山羊の騎乗方法を教えてもらう。
「基本的には、馬の背中に跨がるのと同じよ。鞍を装着して、頭絡(とうらく)を付けて、手綱で操るの」
 アニャは手慣れた様子で、大角山羊に装着していく。
 そして、鐙(あぶみ)を踏んで騎乗して見せた。
「ね、簡単でしょう?」
 その言葉に、「見ているだけだったら」と返した。

199
029.md

@ -0,0 +1,199 @@
養蜂家の青年は、大角山羊に騎乗する
 見たこともないくらいドでかい山羊を前に、たじろぐ。
 黒い大山羊、センツァは欠片も、俺を気にしていなかった。
 それにしても、見事な角だ。これでなぎ払われた日には、体はぶっ飛んで即死だろう。
「まずは、センツァに挨拶するの。山羊は、額で挨拶をするのよ」
「そう、だったんだ」
 以前、山羊の世話に行ったとき、山羊に何度も頭突きをされた記憶がある。あれは、挨拶だったのか。山羊は力が強い。しゃがみ込んでいるときに頭突きをされて、盛大に転んだ覚えもある。
 この大山羊に頭突きなんかされた日には、俺の額が割れて出血するのでは?
 恐ろし過ぎる。
「まずは声をかけて、鼻先から額にかけて優しく撫でるのよ」
「了解」
 できれば近づきたくないけれど、こちらが怖がったら山羊も不安になる。こうなったら、開き直るしかない。
 山羊は友達! 山羊は友達! 山羊は友達!
 心の中で何度も言い聞かせ、一歩、一歩と接近する。
 センツァはやっと俺を見た。細い長方形の瞳孔が、ただ一点に向けられている。
「やあ、センツァ。いい天気だね」
 自分でも驚くほど、棒読みになってしまった。
 少し離れた場所で見守っていたアニャが、口元を押さえて笑っている様子を視界の端で捉える。集中力が途切れるので、角度を変えて彼女が入らないようにした。 
 まず、拳を差し出して匂いを嗅がせる。犬は、たいていこれをすれば受け入れてくれる。山羊に通用するのかはわからないけれど。
 センツァは興味があるのか、くんくん嗅いでくる。そして、ペロリと舐めた。
 声が出そうになったが、ぐっと我慢した。
「イヴァン、ペロペロ舐めるのも、山羊の挨拶なの」
「そうなんだ」
 ひとまず、挨拶を返してくれたので、鼻先から額にかけて撫でてあげた。
 アニャがもっと強くしてもいいというので、爪を立ててガシガシ掻くように撫でてやる。すると、気持ちがいいのか、目を細めていた。
「慣れてきたら、顎の下や頬を撫でてあげて」
「了解」
 額を右手でガシガシ撫で、左手で顎の下を優しく撫でてやる。お気に召したのか、もっとやれと接近してきた。
「もう、それくらいでいいわ。センツァはきっと、あなたを背中に乗せてくれるはず」
「そう、よかった」
 ホッと胸をなで下ろしていたら、センツァは額を寄せてきた。
 巨大な角も迫り、悲鳴を上げたい気持ちをぐっと抑える。
 すると、センツァは額と額を軽く合わせて、優しくスリスリとすり寄ってきた。
 こんなに大きな体なのに、人間が非力で弱い生き物だとわかっているのだろう。
 山羊について、ずっと思い違いをしていた。個人的に誤解していただけで、心優しい存在であった。
「じゃあ、頭絡の付け方を教えるわね」
 手綱を首にかけ、まずははみを口に銜えさせ、噛ませる。頭部にベルトを合わせ、項部分のベルトを締める。次に、鼻部分のベルトを締め、最後に喉部分のベルトを締めるようだ。
「喉元は、きっちり締めなくてもいいわ。指が一本か二本、通るくらいベルトに余裕を持って」
「わかった」
 山羊に頭絡を付けるなんて、ありえない。嫌がるだろうと思っていたが、案外すんなり受け入れている。いったいどうやって躾けたのか、謎が深まる。
 頭絡を付け終わったら、鞍を装着する。これも、センツァは嫌がらずに受け入れた。
 準備が整うと、ついに騎乗する段階までたどり着いてしまう。
「乗り方は、片足で鐙を踏んで、一気に上がるの。躊躇っていたら山羊の負担になるから、一気にサッと上がるのよ」
 アニャはそう行って、白い大山羊クリーロに軽々と跨がっていた。
「さあ、イヴァンも乗ってみて」
「うん」
 準備が終わって尚、乗れる気がしないがやるしかない。
 センツァの額をガシガシ撫で、頼んだぞと声をかけてから乗ってみる。
 手綱を手にした状態で鐙に足をかけ、一気に上がった。鞍に跨がり、腰を下ろす。
「うわ、乗れた」
「いいじゃない」
 操縦は馬と一緒らしい。しかし、乗馬なんてしたことがない。そう答えると、アニャは操縦方法を教えてくれた。
「歩かせるときは、左右の踵でお腹をポン! って蹴るの。軽く走らせたいときは、お腹をポンポン! って蹴る。曲がる時は、曲がりたい方向の手綱を引くのよ。止まるときは、少し立ち上がって手綱を引く。わかった?」
「やってみる」
 アニャが教えてくれたとおり、センツァの腹を踵で軽く蹴った。すると、ゆっくり歩き始める。
 庭をぐるぐる周り、時折軽く走ってみせた。センツァは従順で、きちんと指示に従ってくれる。
「イヴァン、上手じゃない」
 ただ、ここで喜んではいけない。もう一段階、試練があるのだ。
 それは、崖を登ること。考えただけでも、身が竦んでしまう。
 崖を登るときは、木で作った笛で合図を出すらしい。紐が付いた、平たい笛である。
「これ、使っていないものだから、どうぞ」
「ありがとう」
 受け取ったあと、アニャは信じられないことを言った。
「じゃあ、今から崖を登りましょうか」
 まだ崖を登ってもいないのに、肝がスッと冷えた。

307
030.md

@ -0,0 +1,307 @@
養蜂家の青年は、大角山羊と共に崖を駆け上がる
 大角山羊に跨がり、アニャのあとに続いて山道を走る。
 道は当然真っ直ぐでなければ、石畳で整えられたものでもない。ぐねぐねに曲がる獣道で、眼前に木が迫る恐怖と戦いながら進んでいく。
 突き出た木の枝が、頬を叩く。
「痛った!」
 子どものころいたずらをして、母に叱られて叩かれたときより痛かった。
 枝を避ける技術を習得しないと、頬を切ってしまうだろう。気を付けなければ。
 景色がものすごい速さでくるくる変わっていく。苦労して登った坂道を、センツァは一瞬で駆け上がった。
 さすがの脚力である。大角山羊に乗って移動する意味を、身をもって理解した。
 十分ほど走ると、ごつごつとした岩場にたどり着いた。
 崖というほど断崖絶壁ではないものの、上へ上へと重なり合った岩は人が自力で登れるような場所ではない。
「イヴァン、見本を見せるわね」
 アニャは笛を銜え、短く吹いた。すると、クリーロは膝を曲げ、岩に向かって跳んだ。
「うわっ!!」
 俺が登ったわけではないのに、声をあげてしまう。美しい弧を描くように、跳んでいったのだ。クリーロの体はブレることなく、岩場に着地する。あんなに大きな体なのに、驚くほど安定していた。
 軽やかな足取りで、どんどん上へ上へと登っている。信じがたい光景を、目にしていた。
「嘘だろう?」
 これを、今からしないといけないのだ。ただ乗っているだけではダメなのだろう。
 岩場を登るアニャの体は、ほぼ垂直になっていた。いったいどのようにして均衡を取っているのか。理解できない。
 大角山羊に出す指示しか聞いていなかった。騎乗している側の心得も、何かあっただろう。もう、アニャの姿は小さくなっている。今更聞けない。
 改めて、岩場を見上げる。ヒュンと、心臓が縮んだ気がした。
 岩はごつごつしているうえに、ところどころナイフのように鋭く尖っていた。もしもセンツァの背中から落下したら、大怪我を負うどころか生きているかでさえ怪しい。
 アニャは岩場の頂(いただき)にたどり着いたようで、ぶんぶんと手を振っている。
 かすかに、声が聞こえた。「イヴァンも、早く登りなさいよ!」と。
 なんて恐ろしいことを言っているのか。
 センツァは早く岩場を登りたいのだろう。前脚をジタバタと動かし始めた。
 覚悟を決めるしかない。
「よし、行くぞ」
 覚悟を口にしたのちに、笛を銜える。歯が、ガタガタ震えているのに気づいてしまった。まったく、情けないものである。
 アニャは大した勇気の持ち主だ。あんな岩場を、平然と登っていくなんて。
 俺なんか、「登り切ったら金貨一枚あげる」と言われても、速攻で断るだろう。
 はーーとため息を吐いただけのつもりが、笛の音が鳴ってしまった。
 センツァは「待っていました!」とばかりに、「メエ!」と高く鳴いた。
「どわっ!!」
 センツァは岩場に向かって大跳躍を見せてくれる。
 空中滑走した瞬間、心臓は確実に半分ほどに縮んだだろう。生きた心地がまったくしなかった。
 いつ、岩場へ着地したのかは、よくわからなかった。それくらい、衝撃が伝わってこなかったのだ。
 体は傾き、少しでも腿の力を緩めたらセンツァの背中から落ちてしまうだろう。一瞬たりとも、気を抜けない。
 早く岩場の頂へたどり着きたい。その思いから、笛をもう一度吹く。
「うわぁ!!」
 跳躍時に体が引っ張られる感覚は、なんと表現したらいいのか。
 木から落ちるときに似ているような気がした。体の中心がスーッと冷えていくような、不安感に襲われる。
 二回目に着地した岩場は、一回目よりも足場が不安定だった。体がこれでもかと、傾いている。怖いので、三回目の笛を吹いた。
 上に、上にと昇っていくにつれて、体が後ろへ引っ張られる。上体を前に保っていないと、転げ落ちてしまう。
 もう、岩場で制止している時間は不要だ。一刻も早く、登りきりたい。でないと、腿の筋肉が限界を迎えてしまう。
 跳躍と着地をタン、タン、タンの間隔から、タンタンタンの間隔に変える。
 あまりにも早すぎて、自分がどういう状態にあるのかわからなくなってしまった。
 恐怖は岩場のどこかに落としてしまったのか。
 もはや何も感じなくなってしまう。
「はあ、はあ、はあ、はあ!!」
 やっとのことで、岩場を登り切った。
 岩場の頂には、豊かな木々が生い茂っている。そして、灰色熊のカーニオランが、目の前を通過していった。
 新緑に芽吹く花に留まり、蜜を集めているようだった。
 美しい光景に、ただただ見とれてしまう。
「イヴァン、やったじゃない! 初めてにしては、上出来よ!」
 アニャの声を耳にした瞬間、やっと我に返る。そして、ドッと全身に汗を掻いた。
「俺、岩場を、登ってきた?」
「ええ。勇敢だったわ」
 勇敢、だっただろうか。ひたすら、戦々恐々としていただけのような気もする。
 頑張ったのは俺ではなく、センツァだろう。
 センツァの背中から下り、鼻先から額にかけて撫でてやった。
「センツァ、よく、やった」
 褒めると、目を細めて低い声で「メエ!」と鳴く。
 センツァとクリーロは、しばしこの辺に放すらしい。笛を連続で五回鳴らしたら、戻ってくるという。それまで、自由にさせるようだ。
 手綱を放すと、手が真っ赤だった。きっと、命綱のように思いながら力いっぱい握っていたのだろう。
 一歩、前に踏み出そうとしたが、足が動かない。
「イヴァン、どうしたの? 気分が悪いの?」
「いや、そうじゃなくて……」
 今の状態を、なんと表せばいいものか。息苦しくて、気持ち悪くて、体が重い。
 体調に影響を及ぼすほど、崖登りが恐ろしかったのか。
「この辺は家がある辺りよりずっと空気が薄いの。体が、適応できていないのよ。その場に、座って」
「うん」
「ものすごい汗だから、脱水症状でもあるのかもしれないわ」
「そう、かも。なんだかものすごく、喉が渇いている」
「これを飲んで」
 アニャが革袋に入れた飲み物を差し出してくれた。
「水にライムを搾って、蜂蜜と塩を加えた飲み物よ。これを飲んだら、たぶん体調不良もマシになると思うわ。全部飲んでいいから」
「ありがとう」
 さっそくいただく。自分で意識していた以上に、喉が渇いていたようだ。爽やかな味わいで、ごくごくと飲み干してしまった。
「少し、横になりなさい。楽になるから」
 岩場を登った先は、豊かな草むらと木々が広がっている。横になっても問題ないだろう。
 だがここで、アニャは想定外の行動に出る。
 足を伸ばして座り、ここで眠れとばかりに腿をぽんぽん叩いたのだ。
「いや、それはさすがに悪いような」
「頭を上げて眠ると、血液の巡りもよくなるのよ。体の負担も、軽くなるから」
「そうなんだ」
 蜜薬師と呼ばれるアニャの言うことなので、素直に聞いていたほうがいいだろう。
 ゆっくりと寝転がり、アニャの腿に頭を預ける。
「ついでに、顔の腫れに薬を塗るわね」
「よろしくお願いします」
 汗を布で優しく拭ってから、蜂蜜色の薬を顔に塗ってくれる。
「それは、何?」
「蜂蜜軟膏よ。保湿と、殺菌効果があるの」
 蜜蝋と蜂蜜、精油にした薬草を使って作るらしい。
 アニャは鼻歌を歌いながら、蜂蜜軟膏を指先で伸ばしていた。くすぐったいし、なんだか気恥ずかしくもなる。
 照れ隠しに、アニャに話しかけてしまった。
「アニャ、それ、なんの歌?」
「子守歌よ」
「……」
 どうやら、アニャは俺を寝かしつけようとしているようだ。
 まさか、二十歳過ぎて「いい子でねんね」をされるとは。
「イヴァン、瞼にも塗るから、目を閉じて」
 目を閉じると、アニャは他の部位よりも優しく瞼に触れる。
 蜂蜜軟膏は、ほんのり甘い匂いがした。直に蜂蜜を塗るよりは、さっぱりとしている。
 アニャの鼻歌を聴いているうちに、先ほどの息苦しさや気持ち悪さは薄くなっているような気がした。
「アニャ、ありがとう」
 そんなことを呟きながら、俺はアニャの腿を枕にまどろんでいた。
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