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ch011~020, ja source context

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011.md

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養蜂家の青年は、親友と立ち話をする
 今日も、ミハルが馬車でイェゼロ家が注文した品物を持ってくる。
「おーい、イヴァン!」
「ミハル、また、酒?」
「いいや、今日は食料品だ」
 イェゼロ家は三十八人家族である。買い物はすべて大量に注文し、配達してもらっているのだ。
 今日もまた、ミハルは「おまけだ」と言って、オリーブオイルに魚を浸けた瓶詰めを譲ってくれた。
「これ、いいの? いい品なのでは?」
「それ、一年前のなんだよ。なるべく早く食え」
「そうなんだ。ありがとう」
 ミハルがくれる食料で、なんとか食いつないでいるところもある。イヴァンは手と手を合わせて、感謝の気持ちを示した。
「そういや、お前のところに、にゃんにゃんおじさんは来たか?」
「は? 今、なんて言った?」
「にゃんにゃんおじさん」
「何、その化け物」
「なんでも、にゃんにゃん言いながら、結婚してくれと叫んでいるらしい」
「怖っ!」
 朝からすでに噂になっていたらしい。市場辺りで「にゃんにゃん!」と叫んでいたのだとか。
「その化け物って、どんな外見なの?」
「髭が生えた強面の中年男で、筋骨隆々。ボロボロの服を着ていて、古めかしい喋りをしているらしい。俺は直接見ていなくて、祖父ちゃんが聞いた噂話だけれど」
「ちょっと待って」
 ミハルが特徴を挙げた男に、イヴァンは見覚えがありすぎた。
 眉間の皺を解しながら、深いため息を吐く。
「なあ、イヴァン。にゃんにゃん叫びながら、結婚を迫るとか、怖くねえか?」
「たぶんそれ、にゃんにゃんじゃなくて、自分の名前はマクシミリニャンで、娘の名前はアニャ。娘の結婚相手を探しにやってきた、的な内容じゃないのかな?」
「マクシミリニャンに、アニャ? たしかに、二人を合わせたらにゃんにゃんだな」
 噂が巡り巡って、おかしな方向に転がっているようだ。もう二度と関わり合いになることはないと思っていたので、なんともいえない気持ちになる。
「イヴァン、にゃんにゃんおじさんと、知り合いなのか?」
「知り合いっていうか、昨日、行き倒れになりかけていたところを、助けたんだ」
「もしかして、お前にも結婚してくれにゃんにゃんって言ってきたの?」
「まあ」
「そのあと、街に行ったってことは、きっぱり断ったんだな」
「そうだね」
 昨晩あったことについて話すと、ミハルは「結婚、すればよかったのに」と呟いた。
「にゃんにゃん男の娘と?」
「ああ。だって、お前を気に入って、申し出てくれたんだろう? それに、家業が養蜂だし。財がなくとも、身一つで結婚してくれるなんて、滅多にない話だからな」
「そうだけれど、婿だよ? ここから、出て行かなければならないし」
「いや、出て行くべきなんだよ。一刻も早く」
「どうして?」
「それは――お前が、ダメになってしまうからだよ」
「ダメになっていないけれど?」
 思わず、ムッとしてしまう。言葉尻も、刺々しくなってしまった。ミハルも、目をつり上げて喧嘩腰になる。
「今はな! でも、そのうちダメになる。現状、健康で元気かもしれない。けれど、一人の人間が働ける量は、限りがあるんだよ。お前は、他の男衆の代わりに、力仕事を担って、率先して働いて、実家に多大の益をもたらしている。けれど、人の体は風車の羽根車と同じだ。ずっと、ずーっと回っていたら、いつかは劣化して、壊れてしまうだろうが」
 ミハルの言葉を聞いて、ハッとなる。ダメになるというのは、俺自身が落ちぶれるという意味ではなかった。
 体を心配して、言ってくれていたのだ。気付かずに、怒ってしまった。一言「ごめん」と謝る。
「祖父ちゃんがさ、イヴァンが養蜂がしたいのならば、土地と道具を用意してやるって、言っていたんだ」
 養子にならなくてもいい。諸々の費用は、働いて返してくれと話していたようだ。
「イヴァンが蜜蜂を大事にする想いも、家族が大事なのも、よく理解しているつもりだ。けれど、このままでは、お前はあまり長くは生きられない。休みなくがむしゃらに働いて死んだ人を、何人も見ていると、祖父ちゃんが言っていたから」
「うん、そうだね。その通りだ。俺は、一心不乱に働くばかりで、何も見えていなかった」
「だろう? だから、真剣に独立を考えてくれよ」
「独立……!」
「人生は、家族のためにあるものではない。自分のためのものなんだよ」
 ミハルの言葉は、胸に深く響いた。
 もしも、俺がいなくなったら、本当に危機となるのは家族だろう。
「みんな、俺に、頼り切っているんだ」
「そうなんだよ! わかったか?」
「わかった。ミハル、ありがとう。独立の件、前向きに考えておく」
「イヴァン!」
 ミハルは叫び、抱きついてきた。大型犬のようにじゃれつくので、引き剥がすのに苦労してしまった。
「まあ、なんだ。サシャの嫁にとっても、イヴァンが家を出るのはいいことだと思う」
「ロマナね……」
 困ったことに、ロマナは結婚しても以前のように接したがる。サシャは面白くないだろう。
「あいつ、なんでイヴァンが好きなのに、サシャと結婚したんだろうな」
「は!?」
「は?」
 ミハルと見つめ合い、しばし言葉を失う。パチパチと瞬いていたが、ミハルがすかさず指摘してきた。
「いや、ロマナは、イヴァンのことが前から好きだったろ!!」
「そうだったの?」
「そうだったんだよ!!」
「じゃあなんで、サシャと結婚したの?」
 そういえば結婚する前、サシャに言い寄られて困っているとか話していたのを思い出す。そのまま母に報告したら、「放っておきなさい」と言っていたので放置していたのだが。
 それから半年も経たずに、ロマナとサシャの結婚が決まった。
「ロマナはサシャが苦手だって言っていたのに、不思議だよね」
「それは、ロマナがお前に好意を示しているのに、いつまで経っても素っ気なくするからじゃないか?」
「いや、俺、昔からこんなだし」
「まあ……だな」
 ひとまずロマナがサシャではなく、俺が好きだったという話は聞かなかったことにした。

229
012.md

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養蜂家の青年は、まさかの訪問者に目を剥く
 そうこうしているうちに、太陽があかね色に染まっていく。
「あ、やべ。話し過ぎた! イヴァン、またな!」
「じゃあね――あ!」
 ミハルを引き留め、用事を頼む。
「ごめん、ミハル。にゃんにゃんおじさんを見かけたら、湖の小屋に来るよう言っておいて」
「わかった。会えたらな」
 
 今度こそ、ミハルと別れた。
 太陽は沈みつつあるが、仕事はまだ終わらない。腕まくりし、作業を再開させる。
 腐りかけた木材を処分していたら、しょんぼりとうな垂れるツィリルを発見した。
「ツィリル、どうしたんだ?」
「……」
 涙目のまま、黙り込んでしまう。何か、嫌なことがあったのだろう。しゃがみ込んで、話をきいてみる。
「ツィリル、こっちにおいで」
 白詰草の花畑が見える柵に、ツィリルを抱き上げて座らせた。ポケットに入れていた、非常食の飴玉を手のひらに握らせる。
 ツィリルは飴を口に放り込み、ポロリと涙を零した。
 よほど、辛い目に遭ったのだろう。
 しばらく、白詰草が揺れる花畑を眺める。夕暮れ時でも、蜜蜂はせっせと蜜を集めていた。俺達と同じで、街の就業を促す鐘の音が聞こえても、仕事は終わりではないらしい。
 ツィリルは服の袖で涙を拭っていたので、ハンカチを差し出す。すると、豪快に鼻をかんでいた。思わず、笑ってしまう。
 ツィリルも、なんだかおかしくなったのだろう。泣きながら、笑っていた。
 それから、ツィリルは何があったのかぽつり、ぽつりと話してくれた。
「ロマナ姉ちゃんからもらったクリームケーキを食べていたら、いきなりサシャ兄に頭を叩かれたんだ」
「なんだそりゃ。酷いな」
「うん。サシャ兄は、ロマナ姉ちゃんから、クリームケーキを貰ってなかったみたいで」
 俺が二切れも食べたからだろうか。夫には最優先にしてほしい。
「それにしても、呆れるな。サシャの奴、食い意地が張った、恥ずかしい奴め」
「だよな」
 サシャは子どもが苦手なようで、甥や姪とも極力関わらないようにしている。それなのに、ツィリルを見つけてはいじわるを言ったり、からかったりしているらしい。
 たぶんだけれど、俺とツィリルの仲がいいので、変なふうに絡んでしまうのだろう。
 ミハルが言っていたように、俺がこの家にいると、いろいろダメになってしまうのかもしれない。
 ロマナやサシャだけではなく、ツィリルも。
 
「サシャ兄は、おれが、嫌いなのかな?」
「そんなことはないよ。機嫌が悪かっただけだ」
「だったら、いいけど」
 しょんぼりうなだれるツィリルを、柵から下ろしてやった。
 もう、元気づける菓子はないし、かける言葉も見つからない。どうしたら、元気になってくれるのか。
 一個だけ、思いつく。
 どうしようか迷ったが、ツィリルを元気づけるために使うことにした。
「よし! ツィリル、これから、秘密基地に案内してやる」
「え、いいの? おれ、大きくなっていないけれど」
「特別だから」
「やったー!」
 花畑養蜂園からブレッド湖の小屋まで、徒歩十分ほど。
 暗くなる前に、帰らないといけない。駆け足で向かった。
 小屋を見せた瞬間、ツィリルの瞳はキラリと輝いた。
 中を見せてやると、興奮した様子で振り返る。
「すげーー! 秘密基地だ! イヴァン兄、ここで寝泊まりしていたんだ」
「まあね」
 保存食の棚と、釣り道具一式、それから就寝用の寝具があるばかりの部屋だ。だが、ツィリルにとっては最高の秘密基地なのだろう。
 今日は見せるだけ。後日、また連れてきて、一緒に釣りをしようと誘った。ツィリルは頬を赤く染めながら、何度も頷く。
「一人で、ここに来たらダメだからね」
「わかった!」
 帰りも走る。早く行かないと、夕食を食いっぱぐれてしまうだろう。
 元気な横顔を見せているツィリルを見て、心から安堵した。
 ◇◇◇
 夜、ツィリルと共になんとか夕食を確保し、星空の下で食べた。
 今度の休みに行く釣りについて、ああではない、こうではないと話し合っていたら、義姉がツィリルを迎えにやってきた。風呂の時間らしい。
 俺も、自分で作った風呂で湯を浴びる。
 大家族ともなると、風呂の順番も戦争だ。なんども沸かしては湯を追加し、というのを女性陣は繰り返している。
 待つ時間がもったいないし、女性陣の手をわずらわせるのも申し訳ない。そのため、自作したのだ。
 とは言っても、風呂と呼べる代物ではないのかもしれない。
 大人数用の大鍋を買い、そこに水を張って外でぐつぐつ煮立たせる。それを、三分の一水を注いだ樽に注ぐだけだ。
 屋外なので、冬は寒い。けれど、蜜蜂は汗の臭いに敏感なので、巣箱に近づけなくなる。
 体は清潔さを保っていないといけないのだ。
 石鹸で全身洗い、樽の湯船に浸かる。
「はー……」
 星がきれいだ。そんなことを考えつつ、ゆったりと空を眺めていた。
 家に戻ると、兄達は酒盛りを楽しんでいるようだった。いい気なものである。
 屋根裏部屋に行こうとしたが、押し上げて開ける小口が開かない。
「うわっ、最悪」
 誰かが、小口の上で眠っているのだろう。たまに、あるのだ。
 まあ、今日は小屋に行こうと思っていたので、別にいいのだが。
 にゃんにゃんおじさんこと、マクシミリニャンは小屋に来ているだろうか。きっと、必死になって婿を探していたはずだ。
 肉が売れたかも、気になる。
 外套を着込み、小屋へ向かった。人影はない。
 来たら、扉でも叩いてくるだろう。そう思い、布団へ潜り込んだ。
 まどろんでいたら、扉がトントンと叩かれる。ハッと目を覚まし、起き上がった。
 マクシミリニャンだろう。
 寝ぼけ眼で扉を開くと、思いがけない人物が懐へと飛び込んできた。
「イヴァンさん!」
「ロマナ!?」

315
013.md

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養蜂家の青年は、兄の妻の話を聞く
 なぜ、ロマナがここにいるのか。思考が追いつかず、混乱する。
 この小屋は、家族の中ではツィリルしか知らない。
「どうして、ここに?」
「前に、サシャさんに家を追い出されたときがあって、そのときに、どこかに行くイヴァンさんを見かけて、ついていったらここにたどり着いて……」
「なんで、声をかけなかったの?」
「迷惑だと、思いまして」
 どこから突っ込んでいいものかわからず、頭を抱え込む。
 まさか、ロマナにあとをつけられているのに気付いていなかったなんて。それに、サシャが家を追い出したとは、何事なのか。
 寒いけれど、ロマナを小屋に入れるわけにはいかない。個室で二人きりなんて、絶対に許されないだろう。とりあえず、寒いので外に焚き火を用意する。
 木の枝を重ね合わせ、枯れ葉を被せる。解した麻紐に向かって火打金と火打石を擦り合わせたら、火花が散って着火した。
 ふーふーと息を吹きかけると、だんだんと火が大きくなる。しだいに、ロマナの姿が暗闇の中で浮き彫りになった。
 彼女は外套を着ておらず、薄い寝間着姿だったことに気付く。
「ちょっとロマナ、なんで、その恰好!?」
 慌てて外套を脱ぎ、肩にかけてやる。必要ないと遠慮していたが、いいから着ていろと怒鳴ってしまった。
「もう、理解不能なんだけれど」
 額を押さえた瞬間、ロマナが抱きついてきた。踏ん張るのが一瞬遅れたら、そのまま焚き火に背中から倒れ込んでいただろう。危ないことをする。
「ちょっと、なんなの? 俺、サシャじゃないんだけど!」
 ロマナは何も答えず、ただただ震えるばかりだ。嗚咽も聞こえる。泣いているのだろう。
 さっきも、サシャに家を追い出されたと言っていた。いったい、夫婦の中で何が起こっているのか。
 悪いと思いつつも、ロマナを引き離す。
 大きくなった火のおかげで、はっきりロマナの顔が見えた。
 驚くべきことに、頬に大きな内出血の痕があった。
「なっ……これ、サシャにやられたの!?」
 ロマナは顔を背け、黙り込む。薬は何もないが、とりあえず冷やしたほうがいいだろう。
 布を湖に浸し、きつく絞る。それを、ロマナの頬に当ててやった。
 昼間に見た首を絞めたあとも、見間違いではないのだろう。
 おそらく、サシャは日常的にロマナに暴力をふるっている。
 今までは、見えない場所をぶっていたのかもしれない。
 なんて酷いことをするのか。理解不能だ。
「ねえ、ロマナ。何があったの? どうして、叩かれたの?」
 ロマナはスンスン泣くばかりで、何も話そうとしない。もはや、ため息しか出てこない。
 明日も仕事があるので、早く眠ったほうがいいだろう。
「ねえ、ロマナ。小屋に、布団があるからさ、そこで寝なよ。俺は、ここにいるから」
「そんなの、できません」
「なんとか頑張ってよ、そこんところをさ」
 ここで二人一緒に座っているほうが気まずい。誰かに見られたりしたら、勘違いされるだろう。
「あの、二人で、休みませんか?」
「それは絶対にダメ。天と地がひっくり返っても、ロマナがサシャの妻でいる限り、部屋で二人きりにはなれないんだよ」
 幼い子どもに諭すように、ロマナに言い聞かせる。すると、余計に泣き始めた。
「イヴァンさんは、酷い、です」
「は……? なんで、俺?」
 酷いのはサシャのほうだろう。どうして、俺が酷いことになるのか。
「俺、ロマナに何かした? 無視なんかしていないし、怒鳴らないし、友好的に接していたでしょう?」
「そ、それが、残酷なんです! や、優しくするから、好きになってしまった!」
 ロマナの感情の吐露に、「あーあ」という言葉を返してしまう。
 言わなければ、気付かなかった振りを永遠にしていたのに。この辺は、難しい問題なのだろう。
「ずっと、ずっとずっと、私は、イヴァンさんを、想って、いました」
 だったらなぜ、サシャと結婚したのか。
 それは、俺がロマナの好意に気付かず、のほほんとしていたからだろう。
「イヴァンさんは、わかって、いますか? 私が、サシャさんと結婚したのは、顔が、そっくりだから、なんです」
「ロマナ、それは、本当によくない」
 もしもサシャが聞いたら、怒り狂うだろう。
 サシャは同じ顔をした双子の弟を下等生物だと思っていて、自分を優れた存在だと思って疑わない。
 俺が大事にしているものを根こそぎ奪うことに、喜びを感じているようなひねくれ者なのだ。
 もしも、ロマナが俺の代わりにサシャと結婚したことを知れば、どうなるかは想像したくなかった。
「私……サシャさんに抱かれているときに、イヴァンさんの名前を口にしてしまったんです。だから、叩かれてしまって――!」
 最悪だ。ロマナは絶対に言ってはいけないことを、サシャに言ってしまったようだ。
「それ以前にも、サシャはロマナに暴力をふるっていたんでしょう?」
 ロマナはサッと顔を伏せる。問いかけに対して肯定しているようなものだろう。
「今日は、サシャを怒らせたのが原因だとして、その首を絞めた痕はなんだったの?」
 首を絞めるなんて、よほどのことだろう。ロマナは顔を伏せたまま、絞り出すような声で告白する。
「これは……サシャさんを、愛していると言わなかったから、です」
「しょーもな!!」
 明日、朝一番に母に報告しなければならないだろう。息子達には寛大な母も、暴力には人一倍厳しい。きっと、サシャを怒ってくれるだろう。
 問題は、ロマナだ。もう、サシャと夫婦関係を続けるのは不可能だろう。
「私は、これから、どうすれば……」
 ロマナがこうなってしまったのは、花畑養蜂園に連れてきた俺のせいでもある。
 ひとまず、ロマナは修道院に預ければいい。そのあと、サシャと離婚させて、独立したあと責任を取ればいいのか。
 考えを張り巡らせていたら、ふいにミハルの言葉が甦った。
 ――人生は、家族のためにあるものではない。自分のためのものなんだよ!
 ハッと、我に返る。
 また俺は、誰かのために自分の人生を犠牲にしようとしていた。
 このままでは、いけない。
 俺は俺の人生を歩まないといけないし、ロマナもロマナの人生を歩まないといけないのだ。
 一度、ロマナのことは助けている。あとの人生は、自分で希望を切り開くべきなのだ。
「ロマナ、太陽が昇ったら、街の修道院に行こう」
「え?」
「もう、ここを出て行くんだ。サシャのいる場所は、ロマナの居場所じゃない」
「そんな、そんなの……!」
 ロマナの表情が、絶望に染まっていく。
 住み慣れた場所を離れるのは辛いだろう。養蜂も、彼女の天職のように思えた。けれど、ここで我慢をしたらロマナが壊れてしまう。
 それだけは、避けたい。
「い、嫌です」
「いや、嫌じゃなくって、そうしないと、ロマナ、いつか、サシャに殺されるよ?」
「殺されても、構いません。私は、一秒でも長く、イヴァンさんと、一緒にいたい!」
 再び、ロマナが胸に飛び込んできた。今度は勢いがあったので、押し倒されてしまった。
 もちろん、焚き火のない方向へ。
「待って、待ってロマナ。落ち着いて! 冷静になって!」
「落ち着いていますし、極めて冷静です!」
 人を押し倒しておいて、落ち着いているはないだろう。冷静ではない確かな証拠だ。
「起き上がってから、話をしよう。ね、ロマナ」
 なるべく優しい声で言ったつもりだったが、それに対するロマナの返答は最低最悪だった。
「私を、抱いてください!」
「ちょっ、どうしてそうなるの!?」
「一度、抱いていただけたら、私はそれを一生の思い出として、大事にしますので」
「いや、無理無理無理無理無理!!」
 何回「無理!!」と叫んだのか、よくわからない。
 いったんここで抱いたほうがロマナの気持ちが治まるとわかっていても、絶対にそれはできない行為である。
 ロマナともみくちゃになっているうちに、キスされそうになった。寸前で、回避した。
「他の男に抱かれた私が、穢らわしいから、そういうことを、するのですか!?」
「そうじゃないーい!!」
「だったら!!」
「おい、お前ら、そこで何をしているんだ!?」
 聞こえたのは、サシャの絶叫である。どでかい声で言い合っていたので、接近に気付かなかったのだろう。
 なんていうか、俺の人生、終わった。

211
014.md

@ -0,0 +1,211 @@
養蜂家の青年は、双子の兄に詰め寄られる
 最低最悪のタイミングで、サシャに見つかってしまった。
「ロマナ、離れて!」
「い、嫌っ!」
 ロマナは離れるどころか、サシャがやってきても尚、俺にすがりつく。
 どうしてこうなった。ブレッド湖に向かって、大声で叫びたい。
「お前っ!!」
 あろうことか、サシャはロマナの体を突き飛ばした。
 そして彼女のことは目もくれず、俺に馬乗りになって拳を上げた。
「イヴァン!! この野郎!! ロマナに手を出しやがって!!」
 右頬、左頬にと、サシャは強烈な拳を叩き込んでくれた。とっさに歯を食いしばったものの、それでも激痛が走り、口の中に血の味が広がった。
「止めて、止めてください! イヴァンさんは、何も悪くありません」
「ロマナ!! お前は、黙っていろ」
 近寄ってきたロマナの頬ですら、サシャは叩いた。
 ロマナの体は吹き飛び、地面を転がっていく。
 打ち所が悪かったのだろう。倒れたまま、起き上がろうとしない。
「サシャ、ロマナに手を、上げては、いけない」
「うるさい!! お前ら二人は、夜な夜な隠れて、楽しんでいたのかよ!! 俺のことを、陰でバカにしていたんだろう!?」
「違う……違う……!」
 サシャはどうして、この場所がわかったのだろうか。
 そう思った瞬間、もう一人、誰かいるのに気付いた。ツィリルだ。
 目が合うと、ツィリルは一歩、二歩と後ずさる。
 きっと、ロマナと俺がいないとサシャに詰め寄られ、居場所を吐くように言われたのだろう。
「……ツィリル」
 逃げてと言う前に、サシャに殴られた。ゲホゲホと咳き込んだら、口の端から血が滴っていく。
 視界の端で、ツィリルが走って行く様子が見えた。
「よかった」
 安堵の表情ですら、気に食わないらしい。サシャは、顔面を殴り続ける。
「みんな、イヴァン、イヴァンって、お前ばかり気にするんだ!! 小さいときから、ずっと!! それが、気に食わなかったんだ!!」
 そんなことはない。家族から可愛がられていたのは、明るくて元気なサシャのほうだ。
 街の女の子だって、みんなサシャが好きだと言っていた。
「人気取りをしたいから、みんなの言いなりになっているんだろう? そんな人生、楽しいか?」
「さあ?」
 人生が楽しいとか楽しくないとか、まったく考えたことがなかった。
 これからは、自分のために生きて、人生に楽しみを見いだすのも、いいのかもしれない。
 もしも、この先生きていたらだけれど。
 だんだんと、視界がかすんでくる。
 意識も、朦朧としていた。顔はきっと、ぐちゃぐちゃだろう。
 死ぬほど痛いけれど、叫ぶ元気すらない。
「俺は、お前のことが、大嫌いだ!!」
「そう、なんだ」
 俺は不思議と、サシャのことは嫌いではない。もともと一つだったものが、二つに分かれて生まれた存在だからだろうか。
 サシャを、どこか自分のように思っているのだろう。
「二人も、いらなかったんだ! お前がいるから、俺は何もかも比べてしまい、劣等感に、苛まれる!」
「うん」
 意識が遠退いていく中で、考える。サシャが幸せになるには、どうしたらいいのかと。
 サシャ自身は、俺と真逆の思考でいるようだ。
「いなくなれ!!」
 このまま目を閉じたら、きっと願いは叶うだろう。
 けれど、俺はもう他人のために頑張るのを、止めたのだ。これからは、自由にさせてもらう。
 サシャの拳が迫る瞬間、顔を少しだけ逸らした。一撃は空振りとなる。
「クソ!」
 もう一度、サシャは拳を振り上げた。
 これ以上殴られると、さすがに生死を彷徨ってしまう。
「ちょっ、待っ――」
 ぎゅっと目を閉じたが、衝撃は襲ってこなかった。
 そっと瞼を開くと、サシャの拳が目の前にある。
 これは、いったいどういう状況なのか。よくよく耳を澄ますと、ツィリルの声が聞こえた。
「ロマナ姉ちゃん、大丈夫!? ロマナ姉ちゃん!!」
 ツィリルは逃げたかと思っていたのに、戻ってきたようだ。
 そして、もう一人いた。
 サシャが振り下ろした拳を、握る誰かが。
「もう、止めよ。これ以上殴ったら、死んでしまうぞ」
 聞いたことのある、古めかしい喋りをする低い声。
 思わず、笑ってしまった。
「にゃんにゃんおじさん、じゃん」
 その言葉を最後に、目の前が真っ暗になる。
 最期の言葉が「にゃんにゃんおじさん、じゃん」にならなければいいなと思いつつ、意識を手放した。

181
015.md

@ -0,0 +1,181 @@
養蜂家の青年は、自宅にて目覚める
 にゃんにゃんと、猫の鳴き声が聞こえる。
 いつもだったら気にしないのに、どうしてか鳴き声が聞こえるほうへと誘われる。
 家族の誰かが「イヴァン!」と呼んでいる気がしたが、後回しにした。
 猫の鳴き声はだんだん遠ざかっていく。
 走って追いかけないと、姿を見ることはできないだろう。
 なんだか走りにくい気がして、兄のおさがりの帽子や外套を脱ぐ。ロマナが贈ってくれた靴や手作りの靴下も脱いだ。
 唯一自分で買ったシャツと、ズボンだけになると、ずいぶん走りやすくなった。
 ここでようやく、猫の姿が見える。
 金色の毛並みに、青い瞳を持つ美しい猫だった。まるで、こっちへついてこいと誘っているような鳴き声をあげていた。
 花畑を走り抜け、草原を通り過ぎ、走って、走って、走り抜けると、生まれ育ったブレッド湖を取り囲む景色は見えなくなる。
 たどり着いたのは、深い、深い、エメラルドグリーンの美しい湖。果てなく広がる湖は、ブレッド湖よりも大きく感じた。
 そして、天を衝くようにそびえる雄大な山々。見たこともない光景が、これでもかと広がっていた。
 あまりにも美しく、自然と涙が零れる。
「ここは!?」
 猫の姿は消え、一人の少女の姿になった。姿はおぼろげで見えないけれど、どうしてか強く惹かれるものがある。
 差し出された手を掴もうとしたら、景色がぐにゃりと歪んだ。
「にゃんにゃん、にゃんにゃん」
 低い、中年親父の声が聞こえた。先ほどの、鈴の音が鳴るような猫の声とは真逆である。
 あまりにもにゃんにゃん言うので、叫んでしまった。
「うるさいな!!」
 瞼を開くと、俺を覗き込む中年親父の姿があった。
「にゃんにゃんおじさん……じゃなくて、マクシミリニャン?」
「そうである」
 どうやら、今まで夢を見ていたようだ。何か印象的な内容だった気がするが、よく思い出せない。それよりも、顔面がズキズキ痛み、夢どころではなかった。
「痛った……!」
 ここでようやく、サシャに殴られたときの記憶が甦ってきた。
 まずは、マクシミリニャンに感謝の気持ちを伝える。彼がいなかったら、俺はサシャに殺されていただろう。
「おじさん……ありがとう、ございました」
「気にするでない。それよりも、灯りも持たずに我に助けを求めてきた、少年に感謝するといい」
 ツィリルが、マクシミリニャンを呼んできてくれたようだ。
 もともと、小屋に向かっていたようだが、それでも走って五分くらいの距離は離れていたという。
 ツィリルのおかげで、俺は助かったのだ。
 マクシミリニャンは「しばし休め」と言って出て行った。
 入れ替わるように、母が部屋に入ってくる。
 ここでようやく、この場所が母の寝室であることに気付いた。さすがに、屋根裏部屋に俺を運べなかったのだろう。
「全治、一週間ですって。幸いにも、骨は折れていないそうよ」
 呆れたように、言われてしまった。
 顔全体が死ぬほど痛いのに、骨は折れていないなんて。意外と、頑丈なのだなとしみじみ思う。
 顔は包帯だらけのようだ。傷口が痒いような気がして、気持ち悪い。 
 口の中も、切っているのかじくじく痛む。
 それよりも、気になっている件を質問してみた。
「サシャは?」
「あの子は、酷く取り乱していたから、ブレッド湖の教会に連れて行ったわ。神父様が、しばらく預かってくれるそうよ」
「そうなんだ。大丈夫かな」
「あなたは、そんな状態になっても、サシャの心配をするのね」
「だって、サシャは、双子の兄、だし」
 自分も一歩間違えば、サシャのようになっていた可能性はある。だから、他人事のようには思えなかった。
 俺とサシャは、元は一つだったものが、二つになった存在だから。
「ロマナは?」
「修道院に行くと言って、出て行ったわ」
 義姉達が引き留めたようだが、修道女になると言って聞かなかったと。母も説得に行ったらしいが、取り合ってもらえなかったらしい。
「まさか、サシャとロマナが上手くいっていなかったなんて、思いもしなかったわ」
「まあ、元は他人だから、本当の家族になるのは、難しいよ」
「結婚していないあなたが、どうしてわかったふうな口をきくのよ。でも、その通りなのよね」
 家族とは、なんなのか。改めて、考える。
 俺達人が定義する家族とは、決して蜜蜂のように割り切った関係ではない。
 手と手を取り合って助け合い、愛を与え、また愛を返す存在なのだろう。
 それができないと、関係は破綻してしまう。
 結婚を経て結ばれた存在であれ、血を分け合った存在であれ、特定の家族に頼り切るというのは、もはや家族ではない。
 言葉を選ばないで言うと、蜜蜂に寄生する害虫のようになってしまうのだ。
 寄生されたら、本人も、家も、何もかもがダメになってしまう。
 ロマナもそれに、気付いてしまったのかもしれない。
 俺も、そうなりたくない。
 いい機会だと思い、母に決意を告げる。
「母さん、俺、この家を出る」
「なんですって!?」
「独立したいんだ」
 母は、怒りとも悲しみともとれない表情で、じっと俺を見つめていた。

277
016.md

@ -0,0 +1,277 @@
養蜂家の青年は、決意を語る
「独立って、どこに行くつもりなのよ? 新しく養蜂を始めるの? だったら、養蜂園に新しく土地を開墾して、花畑を作ればいいわ。家だって、窮屈だったら、新しい離れを建ててあげるし」
 俺の中に残っていた、母への情がスーッと冷え込んでいく。
 もしも、日々の仕事を認め、土地を開墾し、花畑を作って、離れを与えてくれたら心から喜んでいただろう。家を出る決意はしなかったはずだ。
 これまで母が俺に畑や家を与えなかったのは、家族にとって“都合がいい”からだ。
 現状、女性陣だけでは仕事は回らない。力仕事は、男手頼りとなる。
 もしも俺が自分の花畑を持ち、蜜蜂の世話で忙しくしていたら、手が足りなくなるのだ。
 だから、母は俺に花畑を与えなかった。
 家だって、俺がいたら、子どもの面倒を見る。だから、離れを与えなかったのだろう。
 家族にとって、俺は便利なだけの存在だったのだ。
 今度は独立させたくないから、引き留めるために餌を与えた。そう捉えてもいいのだろう。
「無理。もう、この家にはいられない。俺はこれから、自分の人生を生きるんだ」
「どうして?」
「だって、蜜蜂はここだけではなく、どこにだっているから」
 世界は広い。まだ、見たことのない景色が広がっているだろう。
 
「イヴァン、あのね、世の中、甘いことばかりじゃないのよ!?」
「わかっている。でも、ここにいたら、俺はダメになってしまうんだ」
 サシャにとっても、家族にとっても、俺がこの家を出て行くほうがいい。
 
「母さん、きちんと家を管理していないと、害虫に犯された蜜蜂の巣穴のように、腐ってしまうからね」
 害虫が何か、わからない母ではないだろう。顔色を青くさせた挙げ句、出て行ってしまった。
 開かれた扉の向こうに、マクシミリニャンの姿が見えた。俺と、母が走って行った方向を交互に見ている。
「ねえ、おじさん」
「どうした?」
「おじさんのところに、ついて行っても、いい?」
「アニャと、結婚してくれるというのか?」
「うん、いいよ。アニャが、俺を気に入ったら、だけれど」
 こんな怪我で顔がぐちゃぐちゃになった、顔面包帯だらけの男を気に入ってくれるとは思わないが。
 性格だって明るくないし、優しい言動を取ることもできない。これだけは性分なので、どうしようもないけれど。
「アニャは、そなたを気に入るにきまっておる!」
 マクシミリニャンはズンズンと接近し、手をぎゅっと握ってくれた。彼の手はごつごつしていて、手のひらの表皮は硬くて、働く男のものだった。
 そして、温かい。久々に触れた熱に、心がジンと震える。
「よくぞ、決意をしてくれた!」
 今回の事件は、関係を清算するいい機会だったのかもしれない。
 もう、ロマナは人知れずサシャに殴られることはなくなった。
 サシャだって、自らと俺を比べて苛立たないだろう。
「では、怪我が治ったところで、迎えにくるゆえに」
「待って。一緒に行くから」
「しかし、怪我が治っておらぬだろう」
「痛いのは顔だけで、体は元気だから」
「そうか。ならば、明後日でよいか?」
「明日でいい」
 あまり、だらだら家にいるのもよくないだろう。
 街の人達にも挨拶したいけれど、この怪我では心配させてしまう。
 ミハルにだけ会って話をして、あとの人達へは手紙を書けばいい。
 数年後、ほとぼりが冷めたら、またこの地を訪ねたい。
「何か、手伝うことはあるか?」
「大丈夫。そういえば、肉は売れた?」
「ああ、おかげさまで、そなたの名を出したら、色を付けて買い取ってくれたぞ」
「だったら、よかった」
 親切な市場の人々は、マクシミリニャンの身の上話を聞いて、婿候補の男性を何名か紹介してくれたらしい。
「しかし、話を聞いていると、山での暮らしに耐えうる者達だと思えず」
「まあ、街での暮らしに慣れた人を、いきなり山へ連れて行っても暮らしは成立しないだろうね。俺だって、そうかもしれない」
「そうであるが、そなたは、環境を受け入れ、生きる強さというものを感じていた」
 マクシミリニャンが気に入る婿は、いなかったようだ。けれど、どうしてもというのであれば、連れて帰るつもりだったらしい。
 だが、結婚してから「無理」と言われても困る。そのため、嘘偽りない山での暮らしを聞かせたようだ。すると、婿候補は顔を青ざめつつ次々と辞退していったらしい。
「そういえば、どんな暮らしをしているか、聞いていなかった」
「聞くか? もう、辞退はできぬのだが」
「なんだよ、その決まりは」
「せっかく得た婿を、逃がすわけにはいかぬからな」
「逃げないよ」
 まず、マクシミリニャンの自宅は山の高い位置にあるらしい。空気が薄く、慣れない者は具合が悪くなるのだとか。
 
「養蜂箱を設置しているのは、崖の遥か上である」
「もしかして、登っているの?」
 マクシミリニャンは深々と頷いた。かなり、とんでもない場所で日々の暮らしをしているようだ。
「心配はいらぬ。我が家には、山羊がいるゆえに」
「山羊?」
 山羊が、蜂蜜を採ってきてくれるのか? いいや、絶対違うだろう。
「山羊が、どうしてくれるの?」
「背中に乗せてくれる」
「もしかして、山羊に乗って崖を登り、蜂蜜を得ているってこと?」
「その通り!」
 なんだそれは、と言いそうになったがごくんと呑み込んだ。
 場所が変われば、生活様式もガラリと変わる。彼らは山羊に跨がり、崖を登った先にある蜂蜜を採って暮らしていたのだろう。
「しかし、山羊か……」
「どうしたのだ?」
「いや、近所の農園に、山羊の世話の手伝いに行ったことがあったんだけれど」
 月に一度、山羊の爪切りを行う。山羊を押さえるのを手伝ったら対価をくれるというので、喜んで参加したのだ。
 当時の俺は、山羊の気性の荒さを理解していなかった。
 角に突かれ、顔面を蹴られ、体当たりされた。満身創痍で得たのは、金ではなく新鮮な山羊のチーズだった。
 以降、俺は山羊に近づいていない。
「そんなわけで、あまり山羊が得意ではないというか、なんというか」
「安心せい。山暮らしの山羊は、穏やかで優しい性格をしておる」
「本当かな」
「本当だ」
 マクシミリニャンは街で宿を取っているらしい。明日の昼頃、出発するのでそのときにまた会おうと言い、部屋から出て行った。
 
 試しに起き上がってみたが、痛いのは顔だけで体は平気だ。
 痛み止めの薬を飲んで、立ち上がってみる。
 いまだ口の中は血の味だったが、そのうち治るだろう。
 そろそろ、ミハルが配達にやってくる時間だ。まず、こちらの事情を話しておかなくては。
 窓を開くと、ちょうどミハルが操縦する馬車が見えた。
 外に出て、ミハルを待つ。
 包帯だらけの俺を見るなり、ミハルは「どちら様ですか?」と尋ねてくる。
「俺だよ、俺」
「どちらの、俺さんでしょうか?」
 口を怪我しているので、声がいつもより籠もっているのだろう。怪訝な表情のまま、ミハルは固まっている。
「俺だ、イヴァンだ」
「ええっ、イヴァン!? どうしたんだ、その顔!?」
「サシャに殴られた」
「ああ、なるほどね」
 その一言で、ミハルはすべてを察してくれたようだ。さすが、心の友である。

181
017.md

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養蜂家の青年は、親友に事情を話す
 小屋に移動し、事の次第をすべて話した。それから、独立を決意して家を出ることも。
「そうか。そんなことがあったのか。まあ、いつか何か起こるだろうなとは思っていた」
「よく、わかったね」
「長年、お前とロマナを見ていたからな」
 ミハルは仕事をする俺を熱烈に見つめるロマナの姿を、何度か目撃していたらしい。
 普段の態度も、俺とそれ以外の人に対する言動や行動は、まったく違っていたようだ。
「街の男がさ、使いにやってきていたロマナに、茶でも飲まないかって声をかけたことがあったらしいんだ。そのときのロマナは、ダニでも見るような目で相手を見ながら、“忙しいので”なんて返していたんだとよ。ロマナが優しいのは、お前とお前の家族だけだったんだ」
「そうだったんだ」
「一番怖かった瞬間は、ここ最近だったかな。お前を見つめるロマナを、背後からサシャが睨んでいるときだった。ありゃイヴァン、いつか刺されるのではと思っていた」
「だから、サシャに気を付けろって言っていたんだな」
 ミハルは険しい表情で、うんうんと頷く。
「しかし、狂っているように見えて、どこか手加減していたのかもしれないな」
「手加減、していた? 俺の顔、ぐちゃぐちゃなんだけど」
「本気を出していたら、歯が折れていたり、骨が折れていたりしていただろう」
「あー、そうだね」
 会話が途切れ、なんとなく空を見上げる。気持ちいいくらいの晴天だった。
「思ったんだけどさ、サシャって、お前が好きで好きで堪らなかったんじゃないのか?」
「は!?」
 ミハルの言葉から、真冬のブレッド湖の水を頭からぶちまけられるほどの衝撃を受ける。
「本気で言っているの?」
「うん。だって、サシャがおかしくなったの、ロマナが来てからなんだろう? それまで、よく遊んでいたし、養蜂の仕事もたまにだけど手伝っていたじゃん」
「まー、うん」
 サシャが変わったのは、思春期だからだと思っていた。けれど、記憶を遡ってみると、ロマナを家で引き取った時期とぴったり重なる。
「いや、でも、ありえないよ」
「いや、ありえるんだな。俺も、サシャとイヴァンが一緒にいるところに仲間に入ろうとしたら、めちゃくちゃ睨まれたことがあったんだ」
「えー」
「たぶん、サシャにとって、イヴァンはもう一人の自分なんだよ。だから、ロマナに取られて面白くなかったし、俺とも仲良くもしてほしくなかった。この気持ちを持て余した結果、イヴァンの気を引こうと、あれこれいやみを言ってきたり、ロマナと結婚してみたりしたんじゃないかな」
「でも、もう一人の自分を、めちゃくちゃに殴る?」
「自傷行為的な?」
「傷ついているのは、もれなく俺だけなんだけれどね」
 ミハルの言っていることは、あながち間違いではないのかもしれない。
 サシャに対する何でも許してしまう気持ちは、母やミハルには理解できないと言われた記憶がある。同じように、他人にできない俺に対する想いを、サシャも持っているのだろう。
「うん。なんか、しっくりきた。やっぱり、俺はこの家にいてはいけなかったんだ」
「そういや、出て行くって言っていたな。これからどうするんだ?」
「にゃんにゃんおじさんの娘と、結婚するよ」
「はあ!? お前、ここを出て行くっていうのか?」
「だって、家を出ても、街にいたら家族やロマナと会うかもしれないでしょう」
「それはそうだけれど……。にゃんにゃんおじさんの家は、ここから離れた場所にある、秘境なんだろう?」
「そう」
「なんだよ。いつ、行くんだ?」
「明日の昼くらい」
「は!?」
「明日までに、ミハルのお祖父さんや親父さんに宛てた手紙を書くから」
「いやいやいや、なんで!? 早すぎないか?」
「もう、決めたんだ」
「そりゃないぜ、イヴァン」
「ごめん」
 これまで、ミハルの家族は本当によくしてくれた。心から、感謝する。
「俺、ミハルと、ミハルの家族のおかげで、腐らずに暮らしていけたんだ。本当の家族みたいに、思っているよ」
「本当の家族だったら、出て行くなよ」
「俺も、そう思うけれど、自分の人生は、誰かに居場所を与えられるものではなくて、自分で切り開きたいんだ」
「……」
 急に黙り込んだので、ミハルを見る。瞳が、若干潤んでいるような気がした。
「イヴァン、俺、お前の新しい人生を、応援したい。でも、今は、急すぎて、なんて言葉をかけていいのか、わからないや」
「本当に、ごめん」
 ミハルは立ち上がり、明日、またくると言う。
 去りゆくミハルに、頭を下げた。
 ◇◇◇
 屋根裏部屋を封鎖し、荷物の整理を行う。
 不要なものは、甥や姪にあげることにした。
 母やロマナが作ってくれた外套や服は、置いて行く。自分で買い集めた品だけ、持って行くようにしたい。
 数枚のシャツにズボン、ミハルが譲ってくれた外套、それから下着類。ちょっとした小物に、これまで作ったり貰ったりした保存食など。
 もっとも大事なのは、養蜂家の父アントン・ヤンシャが執筆した二冊の書籍である。
 飲んだくれの父がたまにお使いを頼むことがあり、そのお駄賃を貯めて買った品だ。俺の、宝物でもある。
 かつて、アントン・ヤンシャは画家になるために見知らぬ地へと渡った。
 同じように、俺も明日、見知らぬ土地へと旅立つ。
 いったい、どんな暮らしが待っているのか。まったく想像もできない。
 不安はなかった。
 だって、自分が望んで選んだ道だから。

269
018.md

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養蜂家の青年は、残る者に話をする
 兄や義姉達は、顔を包帯で巻かれた俺を見て、いたたまれないような表情をしている。
 何も聞いてこないのは、母から口止めされているのだろう。
 非常によそよそしいが、今はその対応は逆にありがたい。
 口の中が痛いので、誰かと話そうという気にもならないし。
 大人達の対応は非常に助かっていたが、深い事情を理解できない子ども達は容赦しない。
 俺を見つけるたびに、笑ったりじゃれついてきたりする。正直、勘弁してほしい。
 明日まで母の部屋を使っていいというので、引きこもって手紙を書くことにした。
 机と椅子があるので、非常に助かる。屋根裏部屋は昼間でも薄暗いし、天井が低いので机や椅子などを持ち込めない。とても、手紙が書けるような環境ではなかった。
 以前、ミハルの実家の店で買った便せん一式を荷造りの中から取り出した。何年もしまっていたので、便せんは色あせている。
 手紙を出す相手なんていないのに、どうして買ったのか。昔の自分の行動が、まったく理解できない。
 しかしまあ、今日役に立っているのでよしとする。
 手紙を書くのは、ミハルの家族と仲がよかった精肉店、生花店、八百屋の店主や従業員。取り引きをする上で親しくしていた。
 きっと俺が独立すると聞いたら、驚くだろう。
 サラサラと手紙を書いていたら、遠慮気味に扉が叩かれた。
「誰?」
「おれ……ツィリル」
 扉を開くと、ツィリルがいたたまれないような表情で立っていた。
 目が合うと、サッと顔を逸らす。
「どうしたの?」
「ちょっと、話したくて」
 ツィリルの手を握り、部屋へと誘う。寝台を椅子代わりに進めたが、なかなか座ろうとしない。
「どうしたの?」
「顔、大丈夫?」
「大丈夫ではないけれど、骨は折れていないし、先生の薬があるから、たぶん早めに治ると思う」
「そ、そっか」
 心配して、様子を見に来てくれたようだ。ここで、マクシミリニャンを呼んできてくれた件に関する感謝の気持ちを伝えた。
「暗い中、おじさんを呼びに行ってくれて、ありがとう」
「う、うん。おれが、喧嘩を止められたら、よかったんだけれど」
 昨日の記憶が甦ったのか、ツィリルの肩が震えていた。
 可哀想に。きっと、サシャが怖かったのだろう。
「暗闇の中、別の大人に助けを求めに行ってくれただけでも、大したものだよ。勇敢だ」
「勇敢なんかじゃないよ。おれ、一回、おじさんの顔を見て、逃げてしまったんだ」
 その気持ちは、大いに理解できる。暗闇の中でマクシミリニャンと出会ったら、逃げたくなるだろう。別に、おかしなことではない。
「それで、どうしたの?」
「おじさんが、追いかけてきたんだ」
 あとからマクシミリニャンに話を聞いたところ、深夜に子どもが一人でいたため、保護しなくてはという思いに駆られたらしい。
 強面で服がボロボロの中年親父が追いかけてきたら、大人の俺でも普通に怖い。ツィリルの恐怖は、かなりのものだっただろう。
「最終的には捕まってしまって、イヴァン兄の名前を叫んだら、おじさんがイヴァン殿を知っているのか? って聞いてきたんだ」
 俺の知り合いだとわかるやいなや、助けを求めたらしい。その後、ツィリルを抱えて小屋に駆けつけてくれたようだ。
「おれが逃げなかったら、もっと早く助けられたのに。ごめん」
「そんなことはないよ。ありがとう」
 頭をぐりぐり撫でてやると、ツィリルの強ばっていた表情が解れた。が、すぐに眉間に皺が寄る。
「あの、さっき、母さんからイヴァン兄が家を出て行くって話を聞いたんだけれど、嘘、だよね?」
「あー」
 そうだった。ツィリルにも、きちんと話しておこうと思っていたのだ。
「ツィリル、俺、この家を出て行くんだ」
「ど、どうして!?」
「どうしてって言われても、説明が難しいな」
「サシャ兄と喧嘩して、仲直りできないから?」
「うーん。まあ、わかりやすく言えば、そうかな」
「だったら、おれがサシャ兄に、イヴァン兄と仲直りしてって、言うから」
「仲直りしたから、出て行かないってわけでもないんだ」
 サシャとロマナの関係を崩してしまった原因は、俺にある。だが、その責任を取るように家を出て行くわけではない。
 このままだと、イェゼロ家がダニに寄生された蜜蜂の巣箱のようになってしまう。もちろん、前向きな気持ちで出て行くという気持ちも大いにある。
 その辺の繊細な事情を、ツィリルにわかるように説明するのは難しい。 
「ひどいよ……。おれを置いて、出て行くなんて」
「うん、そうだね」
 否定はできない。けれど、この家の男手は、俺以外にもある。
 今後のイェゼロ家がどうなるのかは、母の采配しだいだ。
 ツィリルはポロポロと、涙を零していた。こんなに、子どもから好かれる事なんて、二度とないだろう。小さな体を、ぎゅっと抱きしめてやる。
「イヴァン兄、おれも、連れて行って!」
「それはダメ」
 山岳での養蜂だなんて、ツィリルには絶対に無理だ。養蜂家としても見習い未満なので、この家で修行が必要である。
 ただ、気がかりなこともあった。
 このままでは、ツィリルは俺と同じ道を辿ってしまうだろう。
 だから、その辺はきちんと忠告しておく。
「ツィリル、労働には、対価を要求できるんだ。家族だからといって、無償で働いていたら、自分の価値をどんどん下げることになる」
「タイカ? ムショウ? カチ? よくわかんないよ」
「働いたら、ご褒美が貰えるのが普通ってこと。誰かに仕事を頼まれたら、何を貰えるのって、聞くんだ。もしも拒絶したら、しなくていい」
「うーん?」
「たとえばだけれど、働いたら、飴を一つもらう。飴が貰えなかったら、仕事はしない。そういうこと。人はみんな、飴を貰えるから、仕事をしているんだ」
「あー、なるほど」
 菓子で喩えたら、少しは理解を示してくれた。先行きは不安ではあるが。
「どの仕事が、飴玉一つになるのかも、考えるのも大事だからね」
「難しい話だな」
 ただ、ちょっとした手伝いでも報酬を要求したら、女性陣から顰蹙を買うだろう。その辺は、非常に難しいところだ。
 家を出る前に、母に話しておいたほうがいいだろう。
「イヴァン兄が、その辺も教えてくれたらよかったのに」
「そうだね。ごめん」
 しょんぼりとするツィリルの手のひらに、あるものを握らせる。
 それは、ブレッド湖のほとりにある、小屋の鍵だ。
「イヴァン兄、これ!」
「一人で行ったら、ダメだからね。父さんか、兄さんと一緒に行くんだ」
「う、うん」
 ツィリルには、五つ年上の兄がいる。十三歳なので、任せても大丈夫だろう。
「おれが、もらってもいいの?」
「ああ。その代わりに、ミハルのお祖父さんの、漁を手伝ってくれないか?」
 腰が悪いのに、張り切って漁にでかけているのだ。たぶん、俺がいなくなったあとはミハルが渋々手伝うだろうが、ツィリルもいたらさらに助かるだろう。
 ツィリルは、コクリと頷いてくれた。
「ねえ、イヴァン兄、ずっと、会えないわけじゃないよね?」
「もちろん」
「よかった」
 ここでようやく、ツィリルは安堵の表情を見せてくれた。

249
019.md

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養蜂家の青年は、家族と友と別れる
 手紙を書き終えたあとは、横になった途端泥のように眠る。一日に大量の文字を書くことなどないので、疲れてしまったのだろう。
 目が覚めると、カーテンの隙間からこれでもかと太陽光が差し込んでいた。
 母の部屋は、日当たり良好である。
 太陽が差し込まない、過ごしやすい部屋は兄達が使っているのだろう。その辺は、母の優しさなのだろうか。
 包帯を取り、部屋にあった鏡を覗き込んでみる。
 想像以上に、顔はボコボコだった。頬も瞼も額も、内出血で青くなっている。
 唇も切っていたのか、腫れていた。これで、骨が折れていないのだから、自分の体はかなり頑丈なのだろう。山羊や牛のミルクを毎日飲んでいるからだろうか。その辺は、よくわからない。
 しかし、酷い見た目だ。しばらく、包帯が手放せないだろう。
 ため息を一つ零し、鏡を伏せる。自分で自分のことが気の毒になってきたので、鏡は見ないようにしよう。
 ボコボコになった顔についてはさて措いて。昨日書いた手紙を、封する前に確認する。
 一通り読んだが、まあ、問題ないだろう。
 この辺りには学校はなく、文字の読み書きや計算は父に習った。
 父は大学を卒業している、学のある人だったのだ。卒業後は教師になる予定だったが、旅行先で出会った母に一目ぼれし、そのままイェゼロ家に婿入りする形となった。
 教師の仕事を蹴って、愛を取ったというわけである。それほどに、情熱的なものだったらしい。酔っ払った父が、よく話していた。ずっと、後悔しているとも。
 なんでも父はもとより、教師をしながら母を養う予定だった。だが、母はイェゼロ家の一人娘で、養蜂園の跡取り娘でもあったのだ。母も両親や養蜂園を見捨てて結婚なんてできないと別れを切り出すものだから、父は思いきった行動にでてしまったようだ。
 晩年の父は、街の子ども達に文字や計算を教えるのが夢だと語っていた。
 けれど街の者にとっては、幼い子どもでも働き手として数えている。学校に通う時間なんてないと、一蹴されていた。
 自らの学力を養蜂に活かす手段がわからず、父はずっと苦悩していたのかもしれない。
 酒に溺れ、最期は母と口論となり、家を出た。そしてそのまま、帰らぬ人となってしまう。
 時間があったら、父の墓前にも挨拶に行こう。
 父が文字の読み取りを教えてくれたおかげで、俺は養蜂家の父であるアントン・ヤンシャに出会えた。感謝しても、し尽くせない。
 朝食は母が持ってきてくれた。蕎麦粉入りのパンにバターを載せ上から蜂蜜を垂らしたものと、大きなソーセージがぷかぷか浮かんだ“ヨータ”と呼ばれるスープ。それから、山盛りの野いちごがあった。母なりの、愛を込めた最後の食事なのかもしれない。
 盆の上に置かれていたのは、朝食だけではなかった。革袋に入った何かが、置かれている。手に取ると、ずっしり重い。カチャカチャという、金属音も聞こえた。
「母さん、これ何?」
「あなたに、渡していなかった給料よ」
「ああ、そういうことね」
 母は突然、頭を下げた。何事かと思い、ギョッとする。
「え、何?」
「ごめんなさい。毎月、給料を渡していなかったなんて、知らなかったの」
 イェゼロ家の金銭の管理は、一番上の兄アランの嫁ダナがしていたらしい。
 アランから俺の給料を酒代に回せと命じられ、渡していなかったようだ。
「イヴァン、どうして、何も言わなかったのよ」
「いやだって、他の人が賃金をもらっていたとか、知らなかったし」
 皆、各々の花畑で採れた蜂蜜を売って、稼いでいると思い込んでいたのだ。まさか、月収制だったなんて、知る機会なんてなかったし。
 母は深い深いため息をつき、もう一度謝ってくる。
「時間はかかるかもしれないけれど、お金は返すから」
「だったら、そのお金を、今いる子ども達への学費にしてあげて」
「学費?」
「そう。文字の読み書きや計算は、取り引きをする上でも役立つから」
「学なんて、養蜂家には役に立たないわよ」
「立つよ。俺は、養蜂の本を読んで、病気対策もしてきたし」
 アントン・ヤンシャの本を読んで、新たに得た養蜂の知識は山のようにある。日々続けることで得る感覚も大事だが、勉強して得るものも大事なのだ。
「兄さん達が、文字の読み書きや、計算ができるはずだから、先生になってもらって。教えた分だけ、報酬を払ってほしい。身内とはいえ、労働をしたら、対価を与えてほしいんだ。兄さん達だけじゃない。子ども達にも」
「え、ええ。そうね。わかったわ」
 理解してもらえて、ホッと胸をなで下ろす。これで、ツィリルや他の甥や姪達がタダ働きを強いられることはないだろう。
 母が出て行ったあと、食事を取る。
 こんな風にのんびり過ごす朝は、初めてだった。
 ◇◇◇
 出発の時間を迎える。見送りは母とツィリル、それからミハルだけ。
 ひとまず、ミハルに手紙を託す。
「これ、みんなにお願い」
「ああ、任せておけ」
 まだ、ミハルが元気を取り戻していない。昨日の今日なので、無理もないが。ツィリルのほうが、いつも通りだ。母は目を真っ赤にさせていた。
 マクシミリニャンがやってくる。何か買い付けをしたのか、大きな荷物を抱えていた。
「さあ、イヴァン殿、行こうか」
「うん」
 あまり話し込むと、寂しくなってしまう。だから、別れは手短に。
「ミハル、落ち着いたら、手紙を書くよ」
「ああ」 
 背中をポンと叩いたら、「力が強い!」と抗議されてしまった。その様子は、いつものミハルなのでホッとする。
 ツィリルは目を輝かせながら、胸に飛び込んでくる。まだ小さなその体を、ぎゅっと抱きしめた。
 離れると、ツィリルは手に握っていた革袋を差し出してきた。
「これ、イヴァン兄にあげてって、父ちゃんが」
「兄さんが?」
 革袋の中身は、蕎麦の種だった。去年採っていた種を、そのままくれたようだ。
「父ちゃんがね、古い言葉に“新しい場所で蕎麦の種を蒔いて、三日以内に芽がでてきたら、そこはあなたの居場所です”っていうのがあるって、言っていたんだ。だから、居場所に迷ったら、この蕎麦の種を、蒔いてね」
「ありがとう」
 蕎麦の種を受け取り、鞄の中に入れる。
 ツィリルの父親ミロシュは他の兄と比べて比較的俺に優しかったが、特別扱いすると兄弟から反感を買うので表だって何もできなかったのだろう。
 ツィリルの頭を撫でながら、感謝の気持ちをこっそり伝えておくように頼んでおく。
「ツィリル、元気で」
「イヴァン兄も!」
 母はカゴに入った弁当を差し出してくれた。
「お腹が空いたら、マクシミリニャンさんと一緒にお食べなさい」
「ありがとう」
 ただ、それだけの言葉を交わしただけなのに、母はポロポロと涙を零した。
「何があっても、あなたの家は、ここだから」
「うん」
 これは決別ではなく、旅立ちだ。だから、いつでもこの家に帰ってこられるのだ。
「行ってきます」
 手を振って、踵を返す。
 ブレッド湖を背に、新しい一歩を踏み出した。
 前を歩くのは、筋骨隆々の強面のおじさん。
 はたして、彼の娘はどんな見た目で、どんな性格をしているのか。まったく想像がつかない。愛らしい娘だとマクシミリニャンは主張しているが、親の欲目の可能性が大であった。
 果たして、マクシミリニャンの娘アニャは、顔面ボコボコの包帯男との結婚を受け入れるのか。
 なんだか楽しみになってきた。

407
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@ -0,0 +1,407 @@
養蜂家の青年は、ボーヒン湖の近くの村にたどり着く
 マクシミリニャン親子が生活するボーヒン湖の近くには、“リブチェフ・ラズ”という名の小さな村がある。そこまで、馬車が一日一本行き来しているのだ。
 一度も止まらずに馬車を飛ばしたら一時間。乗客を降ろしつつゆっくりだと二時間程度の道のりである。秘境と言われているが、ブレッド湖からさほど離れていない。
 しかし家から遠出したことのない俺にとっては、大冒険である。
 馬車に乗り、生まれ故郷をあとにした。
 窓の外に、雄大なブレッド湖が見えた。馬車が走り出すと、だんだん遠ざかっていく。
 俺の人生は、物心ついたころからブレッド湖と共に在った。
 春は湖畔で走り回り、夏は泳ぎ、冬はボートを漕いで遊んだ。関わりはそれだけではない。養蜂園の花々は、湖からくんだ水で育てられている。日々口にしていた蜂蜜は、ブレッド湖の豊富な水が作り出したと言っても過言ではないだろう。
 気分が沈んだ日は、決まってブレッド湖を眺めにいっていた。
 美しい孤島の教会や、水面で跳ねる魚、のんびり泳ぐ白鳥を眺めていると、不思議と気分が穏やかになるのだ。
 時に遊び場となり、時に生活を助け、時に励ましてくれる。
 これまで、ブレッド湖との関わりは切っても切れないものであった。
 そのブレッド湖が、遠ざかっていく。
 いいや、ブレッド湖のほうが遠ざかっているのではなく、俺が離れていっているのだ。
 なんだか寂しいような、悲しいような。切ない気分になり、瞼が熱くなる。
 すると、昨日サシャから受けた目元の傷がズキズキと痛んだ。
 どうやら、今の俺は感傷的になることすら許されていないらしい。
 強く生きろというわけか。
 太陽の光を浴びたブレッド湖の水面は、キラキラと輝いていた。
 まるで、人生に幸あれと、祝福してくれているようにも見える。
 ガタン! と馬車が揺れたのと同時に、ブレッド湖は見えなくなった。
 これからは、強く生きなければならない。
 守ってくれる家族はいない。俺が、守る側に立たなければならないのだ。
 果たして、財もない甲斐性なし野郎が結婚なんてできるのか。
 俺を選んだマクシミリニャンの目が、節穴でないことを祈るばかりである。
 馬車は三人掛けであるが、大柄のマクシミリニャンがどっかり腰掛けると、大人は二人しか座れなくなる。
 マクシミリニャンの腕は、太ももかと思うほどがっしりしていた。
 山での暮らしが、彼の体を筋肉質にしているのか。
 自分の腕と比べてみる。毎日朝から晩まで働いても、マクシミリニャンのようにムキムキにはならない。
 しばらく山で暮らしたら、筋肉質な体になるのだろうか。
 気になるところだ。
 もしかしたら、同じ山暮らしのアニャも、筋骨隆々なのかもしれない。マクシミリニャンの娘である。間違いないだろう。
 俺とは生まれも育ちも異なる娘である。しかし、マクシミリニャンのように気の良い人物であれば、上手くやっていけるだろう。
 初めての馬車旅である。早速、馬車の振動で尻がこっそり悲鳴をあげていた。
 マクシミリニャンを横目で見てみたが、腕を組んで微動だにしていない。彼はきっと、尻にも厚い筋肉がついているのだろう。羨ましいものだ。
 乗り合いの馬車は定員六名で、商人らしき中年男性や旅装束の若者がいる。彼らもボーヒン湖の近くにあるリブチェフ・ラズまで行くものだと思っていたのに、途中で降りてしまった。
 リブチェフ・ラズまで行くのは、俺とマクシミリニャンだけのようだ。
「母君から預かった弁当は、この辺りで食べたほうがよいな」
 口数が少ないマクシミリニャンは、それだけしか言わない。よくわからなかったが、ひとまず弁当を食べる。
 その三十分後に、早く食べたほうがいい理由に気付いた。
 村に近づくにつれて、道がガタガタになる。馬車が大いに揺れるので、気分が悪くなってしまった。
 そんな状況でも、マクシミリニャンは表情や姿勢を崩さなかった。さすが、山暮らしの男である。
 このように揺れては、食事もままならなかっただろう。早めに食べておいてよかったと、心から思った。
 あとは、食べたものが外に出ないよう、耐えるばかりである。
「イヴァン殿、あと少しの辛抱だ」
「……了解」
 ぼんやりと窓の外を眺める。森の中をひたすら進んでいた。鬱蒼とした森で、気分まで滅入りそうになる。
 しかし、森を抜けると、景色がガラリと変わった。雄大な山々に囲まれる湖が見える。
「あれが、ボーヒン湖?」
「しかり」
 湖の水は驚くほど澄んでいる。湖面はエメラルドグリーンに見えるところもあれば、スカイブルーに見えるところもある。見る角度によって、さまざまな色を見せてくれるようだ。
 ただただ、ボーヒン湖の美しさに見とれてしまった。人間がほとんど手をつけていない、そのままの大自然がここにはある。
 いい大人なのに、心が震えて少し涙ぐんでしまったのは内緒だ。
 ブレッド湖から馬車でゆっくり走ること二時間。ボーヒン湖の近くにある村、リブチェフ・ラズにたどり着いた。
「山羊の飼料を買って帰ろうぞ」
「山羊……」
 いまだ信じられないが、マクシミリニャンとアニャは、大きな山羊に跨がって崖を上り下りしているらしい。背中に鞍を乗せ、弓のように反った大きな角を持って移動しているようだ。山羊といったら、中型犬ほどの大きさという認識でいる。
 けれど、彼らが乗り回す山羊は、雌はロバくらいの寸法で、雄はロバより一回り大きいらしい。どんな姿形をしているのかでさえ、まったく想像できないでいた。
 リブチェフ・ラズは石造りの家が並ぶ、田舎の農村といった感じだ。雄大な山々に囲まれた地の、唯一の村である。
 ボーヒン湖で採れる黄金マスが名物で、それを目当てに各地から訪れる者もいるという。
「この辺りのマス料理店は、かつてここに保養に来ていた貴族に向けて出店されたものである。それゆえに、ぼったくり価格なのだ」
「今でも?」
「今でも、だな」
 現在は各国で苛烈な革命活動が起こり、昔ながらの貴族は減少している。けれど、富裕層がふらりとやってきて、しっかり散財してくれるようだ。
「山の蜂蜜も、そういう者達が好んで買っていくのだ」
「なるほど」
 貴族に成り代わる存在が、経済を支えてくれている。さぞかしありがたいことだろう。
「ブレッド湖も、昔は貴族が多く行き来していただろう?」
「俺が生まれたころには、ほとんどいなかったな」
「そうであったか」
 街には、貴族に向けた店が多く並んでいた。ブレッド湖の街の経済を、貴族が支えていた時代の話である。
 印象的だったのは、貴族御用達の人形店で、ずっと売れ残っていた金髪碧眼の少女人形。
 ずっと、店のショーウィンドウに飾られていたが、俺が八歳か九歳になる頃には、忽然と姿を消した。
 ミハルに話を聞いたら、少女の瞳がサファイアだったので、店主が解体し宝石商へ売り払ったのだという。瞳をくり抜かれた人形は、処分されたのだろう。それを考えると、気の毒な話である。
 金髪碧眼の少女人形が店頭からなくなってすぐに、人形店は閉店となった。
 その昔は、瞳に宝石を使った人形が、飛ぶように売れていたらしい。それほど、貴族は多くの財を有していたのだろう。
 ただ、貴族が優遇される時代は終わった。
 時代の移り変わりについて行けず、廃業となった店は多いという。
 先日、マクシミリニャン親子が皇家御用達の養蜂家と聞いて、心配していた。だが、マクシミリニャンの営む養蜂はその煽りを受けておらず、堅実な生活をしているようだ。その一点だけは、よかったと思う。
 村は田舎の農村、といった感じか。
 ブレッド湖のように観光地ではないので、若干寂れているような場所もある。
 周囲には放牧した家畜と、のどかな田畑が広がっていた。
 収穫期には、安価で小麦粉や蕎麦粉が買えるという。
 すれ違う人々は、顔面包帯男である俺を見てギョッとしていた。最大限に警戒されていたが、マクシミリニャンが一緒なのに気付くと、途端に警戒が解かれる。
「マクシミリニャンさん、そちらの方は?」
「アニャの――」
「ああ、なるほど」
 仲がいいのか、マクシミリニャンの言葉足らずな説明でも理解してくれたようだ。
「アニャさんがきたときには、また頼みますね」
「ああ、伝えておこう」
 村人は会釈し、去って行った。
 マクシミリニャンは、村人とも良好な関係を築いているのだろう。
「ああ、そうであった。納品先である、商店を紹介しよう」
 村のなんでも屋で、野菜から鍋までありとあらゆる品物が揃っているらしい。
 蜂蜜のシーズンになると、山を下りて買い取りしてもらっているようだ。
「ここなのだが――むっ!?」
 平屋建ての大きな店で、ブロンズ製の皇室御用達の看板がぶら下がっている。
 入ろうとしたところ、店休日という札がドアノブにかけられているのに気付いた。
 マクシミリニャンはわかりやすく、しょんぼりと肩を落とす。
「イヴァン殿、どうやら店は、休みだったようだ」
 今日のところは、店主に会わなくてもよかったのかもしれない。顔面包帯男を紹介されても、先ほどの村人のように困惑するだけだろう。
 店は猫騎士亭という名で、初老の男性が独りで切り盛りしているらしい。
 また次回に、という話になった。
「あとは、アニャに帰宅を知らせておくか」
「え?」
「急に帰ったら、驚くからな」
 いったいどういうことなのか。まさか、麓から「これから帰るぞ!」と叫ぶのか。それとも、早馬のように山の上まで至急手紙を届けることができるのか。
 予想は、どちらとも外れだった。
「鳩を使って、知らせるのだ」
「ああ」
 かつて、貴族の間で鳩レースが流行っていたらしい。しかし、時代の移り変わりで貴族は鳩レース場に訪れなくなった。困った事業主は、鳩に別の活用法を見いだす。それが、伝書鳩だったという。
 鳩は賢く、最長でブレット湖の街にまで手紙を届けてくれるようだ。
 赤い屋根の事務局の隣に、鳩小屋がある。覗き込むと、美しい白鳩だった。
 マクシミリニャンは伝書鳩専用の小さな便せんに、実に簡潔な『アニャへ 今晩戻る』という内容を書いていた。それを、鳩に託す。
「これでよし、と」
 すぐに手紙を持たせた鳩は、大空へと放たれた。
 続けて、本来の目的を果たす。
「さて、山羊の飼料を買うか」
 飼料店は営業していたので、ホッと胸をなで下ろした。
 ここでも、包帯だらけの顔を見てギョッとされる。しかし商人だからか、すぐに笑顔で接客をしてくれた。
「ありがとうございました」
「また、来るぞ」
「お待ちしております」
 これにて、村での用事は終わる。あとは、山を登ってマクシミリニャンの家を目指すばかりだ。
 店で買った飼料を、しっかり背負う。
 乾燥させた牧草でも買うものだと思いきや、最初に購入したのは青々とした細麦の束だった。
 他に小麦の外皮や、乾燥させた藁も購入した。
 これらの飼料は、背負子しょいこに積んで運ぶ。
 力仕事は得意だ。家から持ってきた鞄と外皮の大袋を三袋、細麦の束をこれでもかと積んでしっかり紐で縛る。
「そのようにたくさん持って、大丈夫なのか?」
「平気。力と体力だけはあるから」
「そうか。ならば、頼むぞ」
 買い物は以上らしい。基本的には、自給自足で頑張っているようだ。
 そのため、よほどのことがない限り、食材を買い込まないという。
「何か、必要な品はあるか?」
「いや、特にないけれど」
「そうか。ならば、我が家へ行くぞ」
「了解」
 マクシミリニャンと共に村を出て、山の中腹にあるという家を目指す。
「麓から家まで、どのくらいかかるの?」
 軽い気持ちで問いかけた質問に、マクシミリニャンは思いがけない答えを返した。
「早かったら八時間くらいか。暗くならないうちに、帰れたらいいな」
「は、八時間以上!?」
 秘境を、甘く見ていた。長くても、登山は二時間くらいだと思っていたのだ。
 背負子の飼料が、急に重くなったように感じる。
 果たして、無事山の家にたどり着けるものなのか。
 もはや、不安しかなかった。 
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