養蜂家の青年は、食いっぱぐれて湖に行く  ミハルは草むらにゴロリと転がり、目を細めながら青空を見る。 「イヴァン、お前さ。このままだと、働き過ぎて早死してしまうぞ」 「大丈夫だよ。うちに優秀な女王蜂がいる限り、死にはしない」  兄達は酷い扱いをするが、まだ、母親がたしなめてくれている。状況はまだ、最悪ではない。 「お袋さんが死んだあとは、どうするんだよ」 「一応、独立は考えているよ」  週に一度の休日に、ミハルの祖父の趣味である漁に付き合っていた。釣りの名手で、毎回大量の魚を釣って帰るのだ。  そのあと、釣った魚を捌いて街に売りに行く。そのさい、売り上げの二割を報酬として渡してくれるのだ。  その金を、コツコツ貯めている。いつか独立して、自分だけの養蜂園を開くのが夢だ。 「祖父ちゃん、イヴァンを養子として引き取ったら、漁師になるとか言っているぜ」 「週に一回するから、楽しいだけなんだよ」 「だよなあ」  ミハルの祖父は、特に俺を気に入ってくれている。ブレッド湖のほとりにある小屋を、譲ってくれたくらいだ。 「あーあ。俺達家族は、選ばれなかったか。蜜蜂さえいなかったら――ぶわっ!!」  ミハルの顔面目がけ、蜂が飛んできた。ぶぶぶ、と音を立てながら、ミハルの顔にまとわりついている。手で乱暴に払おうとしているところを制止した。 「待ってミハル。動かないで」  飛び回る蜂を、素手で捕まえる。 「うわっと!」 「もう大丈夫」  ミハルは飛び起き、安堵の息を吐いた。 「イヴァン、ありがとう」 「いえいえ」  拳に蜂を握りしめたままだったので、ミハルはぎょっとする。 「お、おい。蜂を握りしめて、大丈夫なのかよ」 「平気。これは雄蜂だから、針は持っていないんだ」 「え、そうなのか!? でも、蜜蜂の針は、通常は体内にあるんだよな? どうして見た目だけで雄蜂だとわかったんだ?」 「雄蜂は雌蜂より、体が大きいからね」 「あー、なるほど」  手を開くと雄蜂は勢いよく跳び上がり、礼を言うように頭上を飛び回ったあといなくなった。 「しかし、なんで、雄蜂には針がないんだ?」 「何もしないから」 「へ?」 「蜜蜂の雄の存在意義は子孫繁栄のみで、あとは巣でぐうたら過ごすんだよ」 「えー、なんだそれ! お前のところの、兄さんみたいじゃん!」  ミハルの容赦ない指摘に、思わず笑ってしまった。  ◇◇◇  あっという間に、一日が終わる。  疲れた体を引きずるように、家路についた。  イェゼロ家は、家長である母ベルタを始めに、親から孫世代まで大家族が暮らしている。母屋の他に離れが六つあるが、まだまだ増える予定だ。  俺個人の部屋なんてあるわけがなく、屋根裏部屋を改造して使っていたが、それも甥や姪に占領されてしまった。  恐ろしいかな。兄の妻だけで十三人、甥と姪だけで、二十三人もいるのだ。  くたくたに疲れて帰ってくると、元気いっぱいの甥と姪が遊んでと集まってくる。まともに相手にしていると、夕食を食いっぱぐれてしまう。彼らが可愛くないわけではないけれど、勘弁してくれと思ってしまうのだ。  夜は夜で子どもの夜泣きに、走り回って遊ぶ物音や声が聞こえる。それだけならば百歩譲って許せるのだが、兄夫婦の夫婦の営みが聞こえてきた日には、死にたいと思った。  双子の兄、サシャは去年結婚したばかり。周囲は子どもの誕生を、今か、今かと楽しみにしている。  二十三人も子どもがいるのに正気かよと、という率直な感想が浮かんできたが、口にできるわけもなく。  新婚夫婦の奮闘を頑張れ、頑張れと応援もできないでいた。  新しい離れの完成なんて待てやしない。  そんな中で、ミハルの爺さんから、ブレッド湖のほとりにある小屋を譲って貰った。  夜中に家を飛び出し、小屋で眠る毎日を過ごしている。  夕食を食いっぱぐれたら、湖で魚を釣って食べたらいい。  爺さんのおかげで、なんとか暮らしていた。  今日も今日とて、俺の分の夕食なんて影も形もなかった。  家族が大勢いたら、誰が食べたとか食べていないとか、確認するのは不可能なのだろう。  ロマナも、サシャに部屋に呼び出されていたようなので、顔を合わせる暇もなく。  きっと、今頃部屋でよろしくやっているのだろう。  腹がぐーっと鳴った。  ひとまず、釣りをして夕食を調達しなくてはならない。  ブレッド湖には、豊富な魚がいる。おかげで、飢えることはない。ありがたい話である。  明かりは満天の星と月明かり。それから、手元にある小さなランタンの炎だけ。  水面に、月と孤島の教会が映し出されている。世にも美しい光景を、独り占めしていた。  と、優雅に湖を眺めている場合ではない。腹の虫は、一秒たりとも待ってくれなかった。今も、ぐーぐーと、空腹を訴えている。  土を掘ってミミズを餌にし、釣り糸を放った。全神経を釣り糸に集中し、しばし待つ。  すると、ググッと糸を引く力を感じた。ひときわ強い力を感じた瞬間、竿を思いっきり引いた。  大きな背びれを持った、縞模様の魚が釣れた。一匹だけでは、満腹にはならないだろう。  粘ること一時間、十二匹の魚が釣れる。なかなかの釣果だろう。一気に食べきれる量ではないが、残りは朝食にしよう。  腹からナイフを入れて腸を抜き、塩を振って串焼きにする。  パチパチ、パチパチと焚き火の火が音を立てる。  風が強く吹くと、火を含んだ灰が舞った。  春が訪れようとしているが、夜は冬のように寒い。  ウサギの毛皮を繋げて作った毛布を、上から被る。  魚の焼き加減は、あと少しだろうか。香ばしい匂いを漂わせていた。 「……ん?」  人の気配を感じた。  目を凝らしても、暗闇なので何も見えない。  だんだんと、姿が浮き彫りになっていく。  見上げるほどの大男が、体を引きずるようにしてやってきたのだ。  年頃は四十前後か。一番上の兄と、同じくらいだろう。  短く刈った髪に、彫りの深い顔、髭はのびっぱなしだった。腕や太ももは丸太のように太く、全体的にガッシリとした体つきである。  軍人かと思ったが、着ている服装は着古した外套にズボンという、一般市民そのものだった。  男は焚き火の前でがっくりうな垂れると、呟くように言う。 「は、腹が、減った!」  男の主張を聞き、はてさてどうしたものかと思う。