養蜂家の青年は、兄の妻の話を聞く  なぜ、ロマナがここにいるのか。思考が追いつかず、混乱する。  この小屋は、家族の中ではツィリルしか知らない。 「どうして、ここに?」 「前に、サシャさんに家を追い出されたときがあって、そのときに、どこかに行くイヴァンさんを見かけて、ついていったらここにたどり着いて……」 「なんで、声をかけなかったの?」 「迷惑だと、思いまして」  どこから突っ込んでいいものかわからず、頭を抱え込む。  まさか、ロマナにあとをつけられているのに気付いていなかったなんて。それに、サシャが家を追い出したとは、何事なのか。  寒いけれど、ロマナを小屋に入れるわけにはいかない。個室で二人きりなんて、絶対に許されないだろう。とりあえず、寒いので外に焚き火を用意する。  木の枝を重ね合わせ、枯れ葉を被せる。解した麻紐に向かって火打金と火打石を擦り合わせたら、火花が散って着火した。  ふーふーと息を吹きかけると、だんだんと火が大きくなる。しだいに、ロマナの姿が暗闇の中で浮き彫りになった。  彼女は外套を着ておらず、薄い寝間着姿だったことに気付く。 「ちょっとロマナ、なんで、その恰好!?」  慌てて外套を脱ぎ、肩にかけてやる。必要ないと遠慮していたが、いいから着ていろと怒鳴ってしまった。 「もう、理解不能なんだけれど」  額を押さえた瞬間、ロマナが抱きついてきた。踏ん張るのが一瞬遅れたら、そのまま焚き火に背中から倒れ込んでいただろう。危ないことをする。 「ちょっと、なんなの? 俺、サシャじゃないんだけど!」  ロマナは何も答えず、ただただ震えるばかりだ。嗚咽も聞こえる。泣いているのだろう。  さっきも、サシャに家を追い出されたと言っていた。いったい、夫婦の中で何が起こっているのか。  悪いと思いつつも、ロマナを引き離す。  大きくなった火のおかげで、はっきりロマナの顔が見えた。  驚くべきことに、頬に大きな内出血の痕があった。 「なっ……これ、サシャにやられたの!?」  ロマナは顔を背け、黙り込む。薬は何もないが、とりあえず冷やしたほうがいいだろう。  布を湖に浸し、きつく絞る。それを、ロマナの頬に当ててやった。  昼間に見た首を絞めたあとも、見間違いではないのだろう。  おそらく、サシャは日常的にロマナに暴力をふるっている。  今までは、見えない場所をぶっていたのかもしれない。  なんて酷いことをするのか。理解不能だ。 「ねえ、ロマナ。何があったの? どうして、叩かれたの?」  ロマナはスンスン泣くばかりで、何も話そうとしない。もはや、ため息しか出てこない。  明日も仕事があるので、早く眠ったほうがいいだろう。 「ねえ、ロマナ。小屋に、布団があるからさ、そこで寝なよ。俺は、ここにいるから」 「そんなの、できません」 「なんとか頑張ってよ、そこんところをさ」  ここで二人一緒に座っているほうが気まずい。誰かに見られたりしたら、勘違いされるだろう。 「あの、二人で、休みませんか?」 「それは絶対にダメ。天と地がひっくり返っても、ロマナがサシャの妻でいる限り、部屋で二人きりにはなれないんだよ」  幼い子どもに諭すように、ロマナに言い聞かせる。すると、余計に泣き始めた。 「イヴァンさんは、酷い、です」 「は……? なんで、俺?」  酷いのはサシャのほうだろう。どうして、俺が酷いことになるのか。 「俺、ロマナに何かした? 無視なんかしていないし、怒鳴らないし、友好的に接していたでしょう?」 「そ、それが、残酷なんです! や、優しくするから、好きになってしまった!」  ロマナの感情の吐露に、「あーあ」という言葉を返してしまう。  言わなければ、気付かなかった振りを永遠にしていたのに。この辺は、難しい問題なのだろう。 「ずっと、ずっとずっと、私は、イヴァンさんを、想って、いました」  だったらなぜ、サシャと結婚したのか。  それは、俺がロマナの好意に気付かず、のほほんとしていたからだろう。 「イヴァンさんは、わかって、いますか? 私が、サシャさんと結婚したのは、顔が、そっくりだから、なんです」 「ロマナ、それは、本当によくない」  もしもサシャが聞いたら、怒り狂うだろう。  サシャは同じ顔をした双子の弟を下等生物だと思っていて、自分を優れた存在だと思って疑わない。  俺が大事にしているものを根こそぎ奪うことに、喜びを感じているようなひねくれ者なのだ。  もしも、ロマナが俺の代わりにサシャと結婚したことを知れば、どうなるかは想像したくなかった。 「私……サシャさんに抱かれているときに、イヴァンさんの名前を口にしてしまったんです。だから、叩かれてしまって――!」  最悪だ。ロマナは絶対に言ってはいけないことを、サシャに言ってしまったようだ。 「それ以前にも、サシャはロマナに暴力をふるっていたんでしょう?」  ロマナはサッと顔を伏せる。問いかけに対して肯定しているようなものだろう。 「今日は、サシャを怒らせたのが原因だとして、その首を絞めた痕はなんだったの?」  首を絞めるなんて、よほどのことだろう。ロマナは顔を伏せたまま、絞り出すような声で告白する。 「これは……サシャさんを、愛していると言わなかったから、です」 「しょーもな!!」  明日、朝一番に母に報告しなければならないだろう。息子達には寛大な母も、暴力には人一倍厳しい。きっと、サシャを怒ってくれるだろう。  問題は、ロマナだ。もう、サシャと夫婦関係を続けるのは不可能だろう。 「私は、これから、どうすれば……」  ロマナがこうなってしまったのは、花畑養蜂園に連れてきた俺のせいでもある。  ひとまず、ロマナは修道院に預ければいい。そのあと、サシャと離婚させて、独立したあと責任を取ればいいのか。  考えを張り巡らせていたら、ふいにミハルの言葉が甦った。  ――人生は、家族のためにあるものではない。自分のためのものなんだよ!  ハッと、我に返る。  また俺は、誰かのために自分の人生を犠牲にしようとしていた。  このままでは、いけない。  俺は俺の人生を歩まないといけないし、ロマナもロマナの人生を歩まないといけないのだ。  一度、ロマナのことは助けている。あとの人生は、自分で希望を切り開くべきなのだ。 「ロマナ、太陽が昇ったら、街の修道院に行こう」 「え?」 「もう、ここを出て行くんだ。サシャのいる場所は、ロマナの居場所じゃない」 「そんな、そんなの……!」  ロマナの表情が、絶望に染まっていく。  住み慣れた場所を離れるのは辛いだろう。養蜂も、彼女の天職のように思えた。けれど、ここで我慢をしたらロマナが壊れてしまう。  それだけは、避けたい。 「い、嫌です」 「いや、嫌じゃなくって、そうしないと、ロマナ、いつか、サシャに殺されるよ?」 「殺されても、構いません。私は、一秒でも長く、イヴァンさんと、一緒にいたい!」  再び、ロマナが胸に飛び込んできた。今度は勢いがあったので、押し倒されてしまった。  もちろん、焚き火のない方向へ。 「待って、待ってロマナ。落ち着いて! 冷静になって!」 「落ち着いていますし、極めて冷静です!」  人を押し倒しておいて、落ち着いているはないだろう。冷静ではない確かな証拠だ。 「起き上がってから、話をしよう。ね、ロマナ」  なるべく優しい声で言ったつもりだったが、それに対するロマナの返答は最低最悪だった。 「私を、抱いてください!」 「ちょっ、どうしてそうなるの!?」 「一度、抱いていただけたら、私はそれを一生の思い出として、大事にしますので」 「いや、無理無理無理無理無理!!」  何回「無理!!」と叫んだのか、よくわからない。  いったんここで抱いたほうがロマナの気持ちが治まるとわかっていても、絶対にそれはできない行為である。  ロマナともみくちゃになっているうちに、キスされそうになった。寸前で、回避した。 「他の男に抱かれた私が、穢らわしいから、そういうことを、するのですか!?」 「そうじゃないーい!!」 「だったら!!」 「おい、お前ら、そこで何をしているんだ!?」  聞こえたのは、サシャの絶叫である。どでかい声で言い合っていたので、接近に気付かなかったのだろう。  なんていうか、俺の人生、終わった。