養蜂家の青年は、自宅にて目覚める  にゃんにゃんと、猫の鳴き声が聞こえる。  いつもだったら気にしないのに、どうしてか鳴き声が聞こえるほうへと誘われる。  家族の誰かが「イヴァン!」と呼んでいる気がしたが、後回しにした。  猫の鳴き声はだんだん遠ざかっていく。  走って追いかけないと、姿を見ることはできないだろう。  なんだか走りにくい気がして、兄のおさがりの帽子や外套を脱ぐ。ロマナが贈ってくれた靴や手作りの靴下も脱いだ。  唯一自分で買ったシャツと、ズボンだけになると、ずいぶん走りやすくなった。  ここでようやく、猫の姿が見える。  金色の毛並みに、青い瞳を持つ美しい猫だった。まるで、こっちへついてこいと誘っているような鳴き声をあげていた。  花畑を走り抜け、草原を通り過ぎ、走って、走って、走り抜けると、生まれ育ったブレッド湖を取り囲む景色は見えなくなる。  たどり着いたのは、深い、深い、エメラルドグリーンの美しい湖。果てなく広がる湖は、ブレッド湖よりも大きく感じた。  そして、天を衝くようにそびえる雄大な山々。見たこともない光景が、これでもかと広がっていた。  あまりにも美しく、自然と涙が零れる。 「ここは!?」  猫の姿は消え、一人の少女の姿になった。姿はおぼろげで見えないけれど、どうしてか強く惹かれるものがある。  差し出された手を掴もうとしたら、景色がぐにゃりと歪んだ。 「にゃんにゃん、にゃんにゃん」  低い、中年親父の声が聞こえた。先ほどの、鈴の音が鳴るような猫の声とは真逆である。  あまりにもにゃんにゃん言うので、叫んでしまった。 「うるさいな!!」  瞼を開くと、俺を覗き込む中年親父の姿があった。 「にゃんにゃんおじさん……じゃなくて、マクシミリニャン?」 「そうである」  どうやら、今まで夢を見ていたようだ。何か印象的な内容だった気がするが、よく思い出せない。それよりも、顔面がズキズキ痛み、夢どころではなかった。 「痛った……!」  ここでようやく、サシャに殴られたときの記憶が甦ってきた。  まずは、マクシミリニャンに感謝の気持ちを伝える。彼がいなかったら、俺はサシャに殺されていただろう。 「おじさん……ありがとう、ございました」 「気にするでない。それよりも、灯りも持たずに我に助けを求めてきた、少年に感謝するといい」  ツィリルが、マクシミリニャンを呼んできてくれたようだ。  もともと、小屋に向かっていたようだが、それでも走って五分くらいの距離は離れていたという。  ツィリルのおかげで、俺は助かったのだ。  マクシミリニャンは「しばし休め」と言って出て行った。  入れ替わるように、母が部屋に入ってくる。  ここでようやく、この場所が母の寝室であることに気付いた。さすがに、屋根裏部屋に俺を運べなかったのだろう。 「全治、一週間ですって。幸いにも、骨は折れていないそうよ」  呆れたように、言われてしまった。  顔全体が死ぬほど痛いのに、骨は折れていないなんて。意外と、頑丈なのだなとしみじみ思う。  顔は包帯だらけのようだ。傷口が痒いような気がして、気持ち悪い。   口の中も、切っているのかじくじく痛む。  それよりも、気になっている件を質問してみた。 「サシャは?」 「あの子は、酷く取り乱していたから、ブレッド湖の教会に連れて行ったわ。神父様が、しばらく預かってくれるそうよ」 「そうなんだ。大丈夫かな」 「あなたは、そんな状態になっても、サシャの心配をするのね」 「だって、サシャは、双子の兄、だし」  自分も一歩間違えば、サシャのようになっていた可能性はある。だから、他人事のようには思えなかった。  俺とサシャは、元は一つだったものが、二つになった存在だから。 「ロマナは?」 「修道院に行くと言って、出て行ったわ」  義姉達が引き留めたようだが、修道女になると言って聞かなかったと。母も説得に行ったらしいが、取り合ってもらえなかったらしい。 「まさか、サシャとロマナが上手くいっていなかったなんて、思いもしなかったわ」 「まあ、元は他人だから、本当の家族になるのは、難しいよ」 「結婚していないあなたが、どうしてわかったふうな口をきくのよ。でも、その通りなのよね」  家族とは、なんなのか。改めて、考える。  俺達人が定義する家族とは、決して蜜蜂のように割り切った関係ではない。  手と手を取り合って助け合い、愛を与え、また愛を返す存在なのだろう。  それができないと、関係は破綻してしまう。  結婚を経て結ばれた存在であれ、血を分け合った存在であれ、特定の家族に頼り切るというのは、もはや家族ではない。  言葉を選ばないで言うと、蜜蜂に寄生する害虫のようになってしまうのだ。  寄生されたら、本人も、家も、何もかもがダメになってしまう。  ロマナもそれに、気付いてしまったのかもしれない。  俺も、そうなりたくない。  いい機会だと思い、母に決意を告げる。 「母さん、俺、この家を出る」 「なんですって!?」 「独立したいんだ」  母は、怒りとも悲しみともとれない表情で、じっと俺を見つめていた。