養蜂家の青年は、決意を語る 「独立って、どこに行くつもりなのよ? 新しく養蜂を始めるの? だったら、養蜂園に新しく土地を開墾して、花畑を作ればいいわ。家だって、窮屈だったら、新しい離れを建ててあげるし」  俺の中に残っていた、母への情がスーッと冷え込んでいく。  もしも、日々の仕事を認め、土地を開墾し、花畑を作って、離れを与えてくれたら心から喜んでいただろう。家を出る決意はしなかったはずだ。  これまで母が俺に畑や家を与えなかったのは、家族にとって“都合がいい”からだ。  現状、女性陣だけでは仕事は回らない。力仕事は、男手頼りとなる。  もしも俺が自分の花畑を持ち、蜜蜂の世話で忙しくしていたら、手が足りなくなるのだ。  だから、母は俺に花畑を与えなかった。  家だって、俺がいたら、子どもの面倒を見る。だから、離れを与えなかったのだろう。  家族にとって、俺は便利なだけの存在だったのだ。  今度は独立させたくないから、引き留めるために餌を与えた。そう捉えてもいいのだろう。 「無理。もう、この家にはいられない。俺はこれから、自分の人生を生きるんだ」 「どうして?」 「だって、蜜蜂はここだけではなく、どこにだっているから」  世界は広い。まだ、見たことのない景色が広がっているだろう。   「イヴァン、あのね、世の中、甘いことばかりじゃないのよ!?」 「わかっている。でも、ここにいたら、俺はダメになってしまうんだ」  サシャにとっても、家族にとっても、俺がこの家を出て行くほうがいい。   「母さん、きちんと家を管理していないと、害虫に犯された蜜蜂の巣穴のように、腐ってしまうからね」  害虫が何か、わからない母ではないだろう。顔色を青くさせた挙げ句、出て行ってしまった。  開かれた扉の向こうに、マクシミリニャンの姿が見えた。俺と、母が走って行った方向を交互に見ている。 「ねえ、おじさん」 「どうした?」 「おじさんのところに、ついて行っても、いい?」 「アニャと、結婚してくれるというのか?」 「うん、いいよ。アニャが、俺を気に入ったら、だけれど」  こんな怪我で顔がぐちゃぐちゃになった、顔面包帯だらけの男を気に入ってくれるとは思わないが。  性格だって明るくないし、優しい言動を取ることもできない。これだけは性分なので、どうしようもないけれど。 「アニャは、そなたを気に入るにきまっておる!」  マクシミリニャンはズンズンと接近し、手をぎゅっと握ってくれた。彼の手はごつごつしていて、手のひらの表皮は硬くて、働く男のものだった。  そして、温かい。久々に触れた熱に、心がジンと震える。 「よくぞ、決意をしてくれた!」  今回の事件は、関係を清算するいい機会だったのかもしれない。  もう、ロマナは人知れずサシャに殴られることはなくなった。  サシャだって、自らと俺を比べて苛立たないだろう。 「では、怪我が治ったところで、迎えにくるゆえに」 「待って。一緒に行くから」 「しかし、怪我が治っておらぬだろう」 「痛いのは顔だけで、体は元気だから」 「そうか。ならば、明後日でよいか?」 「明日でいい」  あまり、だらだら家にいるのもよくないだろう。  街の人達にも挨拶したいけれど、この怪我では心配させてしまう。  ミハルにだけ会って話をして、あとの人達へは手紙を書けばいい。  数年後、ほとぼりが冷めたら、またこの地を訪ねたい。 「何か、手伝うことはあるか?」 「大丈夫。そういえば、肉は売れた?」 「ああ、おかげさまで、そなたの名を出したら、色を付けて買い取ってくれたぞ」 「だったら、よかった」  親切な市場の人々は、マクシミリニャンの身の上話を聞いて、婿候補の男性を何名か紹介してくれたらしい。 「しかし、話を聞いていると、山での暮らしに耐えうる者達だと思えず」 「まあ、街での暮らしに慣れた人を、いきなり山へ連れて行っても暮らしは成立しないだろうね。俺だって、そうかもしれない」 「そうであるが、そなたは、環境を受け入れ、生きる強さというものを感じていた」  マクシミリニャンが気に入る婿は、いなかったようだ。けれど、どうしてもというのであれば、連れて帰るつもりだったらしい。  だが、結婚してから「無理」と言われても困る。そのため、嘘偽りない山での暮らしを聞かせたようだ。すると、婿候補は顔を青ざめつつ次々と辞退していったらしい。 「そういえば、どんな暮らしをしているか、聞いていなかった」 「聞くか? もう、辞退はできぬのだが」 「なんだよ、その決まりは」 「せっかく得た婿を、逃がすわけにはいかぬからな」 「逃げないよ」  まず、マクシミリニャンの自宅は山の高い位置にあるらしい。空気が薄く、慣れない者は具合が悪くなるのだとか。   「養蜂箱を設置しているのは、崖の遥か上である」 「もしかして、登っているの?」  マクシミリニャンは深々と頷いた。かなり、とんでもない場所で日々の暮らしをしているようだ。 「心配はいらぬ。我が家には、山羊がいるゆえに」 「山羊?」  山羊が、蜂蜜を採ってきてくれるのか? いいや、絶対違うだろう。 「山羊が、どうしてくれるの?」 「背中に乗せてくれる」 「もしかして、山羊に乗って崖を登り、蜂蜜を得ているってこと?」 「その通り!」  なんだそれは、と言いそうになったがごくんと呑み込んだ。  場所が変われば、生活様式もガラリと変わる。彼らは山羊に跨がり、崖を登った先にある蜂蜜を採って暮らしていたのだろう。 「しかし、山羊か……」 「どうしたのだ?」 「いや、近所の農園に、山羊の世話の手伝いに行ったことがあったんだけれど」  月に一度、山羊の爪切りを行う。山羊を押さえるのを手伝ったら対価をくれるというので、喜んで参加したのだ。  当時の俺は、山羊の気性の荒さを理解していなかった。  角に突かれ、顔面を蹴られ、体当たりされた。満身創痍で得たのは、金ではなく新鮮な山羊のチーズだった。  以降、俺は山羊に近づいていない。 「そんなわけで、あまり山羊が得意ではないというか、なんというか」 「安心せい。山暮らしの山羊は、穏やかで優しい性格をしておる」 「本当かな」 「本当だ」  マクシミリニャンは街で宿を取っているらしい。明日の昼頃、出発するのでそのときにまた会おうと言い、部屋から出て行った。    試しに起き上がってみたが、痛いのは顔だけで体は平気だ。  痛み止めの薬を飲んで、立ち上がってみる。  いまだ口の中は血の味だったが、そのうち治るだろう。  そろそろ、ミハルが配達にやってくる時間だ。まず、こちらの事情を話しておかなくては。  窓を開くと、ちょうどミハルが操縦する馬車が見えた。  外に出て、ミハルを待つ。  包帯だらけの俺を見るなり、ミハルは「どちら様ですか?」と尋ねてくる。 「俺だよ、俺」 「どちらの、俺さんでしょうか?」  口を怪我しているので、声がいつもより籠もっているのだろう。怪訝な表情のまま、ミハルは固まっている。 「俺だ、イヴァンだ」 「ええっ、イヴァン!? どうしたんだ、その顔!?」 「サシャに殴られた」 「ああ、なるほどね」  その一言で、ミハルはすべてを察してくれたようだ。さすが、心の友である。