養蜂家の青年は、家族と友と別れる  手紙を書き終えたあとは、横になった途端泥のように眠る。一日に大量の文字を書くことなどないので、疲れてしまったのだろう。  目が覚めると、カーテンの隙間からこれでもかと太陽光が差し込んでいた。  母の部屋は、日当たり良好である。  太陽が差し込まない、過ごしやすい部屋は兄達が使っているのだろう。その辺は、母の優しさなのだろうか。  包帯を取り、部屋にあった鏡を覗き込んでみる。  想像以上に、顔はボコボコだった。頬も瞼も額も、内出血で青くなっている。  唇も切っていたのか、腫れていた。これで、骨が折れていないのだから、自分の体はかなり頑丈なのだろう。山羊や牛のミルクを毎日飲んでいるからだろうか。その辺は、よくわからない。  しかし、酷い見た目だ。しばらく、包帯が手放せないだろう。  ため息を一つ零し、鏡を伏せる。自分で自分のことが気の毒になってきたので、鏡は見ないようにしよう。  ボコボコになった顔についてはさて措いて。昨日書いた手紙を、封する前に確認する。  一通り読んだが、まあ、問題ないだろう。  この辺りには学校はなく、文字の読み書きや計算は父に習った。  父は大学を卒業している、学のある人だったのだ。卒業後は教師になる予定だったが、旅行先で出会った母に一目ぼれし、そのままイェゼロ家に婿入りする形となった。  教師の仕事を蹴って、愛を取ったというわけである。それほどに、情熱的なものだったらしい。酔っ払った父が、よく話していた。ずっと、後悔しているとも。  なんでも父はもとより、教師をしながら母を養う予定だった。だが、母はイェゼロ家の一人娘で、養蜂園の跡取り娘でもあったのだ。母も両親や養蜂園を見捨てて結婚なんてできないと別れを切り出すものだから、父は思いきった行動にでてしまったようだ。  晩年の父は、街の子ども達に文字や計算を教えるのが夢だと語っていた。  けれど街の者にとっては、幼い子どもでも働き手として数えている。学校に通う時間なんてないと、一蹴されていた。  自らの学力を養蜂に活かす手段がわからず、父はずっと苦悩していたのかもしれない。  酒に溺れ、最期は母と口論となり、家を出た。そしてそのまま、帰らぬ人となってしまう。  時間があったら、父の墓前にも挨拶に行こう。  父が文字の読み取りを教えてくれたおかげで、俺は養蜂家の父であるアントン・ヤンシャに出会えた。感謝しても、し尽くせない。  朝食は母が持ってきてくれた。蕎麦粉入りのパンにバターを載せ上から蜂蜜を垂らしたものと、大きなソーセージがぷかぷか浮かんだ“ヨータ”と呼ばれるスープ。それから、山盛りの野いちごがあった。母なりの、愛を込めた最後の食事なのかもしれない。  盆の上に置かれていたのは、朝食だけではなかった。革袋に入った何かが、置かれている。手に取ると、ずっしり重い。カチャカチャという、金属音も聞こえた。 「母さん、これ何?」 「あなたに、渡していなかった給料よ」 「ああ、そういうことね」  母は突然、頭を下げた。何事かと思い、ギョッとする。 「え、何?」 「ごめんなさい。毎月、給料を渡していなかったなんて、知らなかったの」  イェゼロ家の金銭の管理は、一番上の兄アランの嫁ダナがしていたらしい。  アランから俺の給料を酒代に回せと命じられ、渡していなかったようだ。 「イヴァン、どうして、何も言わなかったのよ」 「いやだって、他の人が賃金をもらっていたとか、知らなかったし」  皆、各々の花畑で採れた蜂蜜を売って、稼いでいると思い込んでいたのだ。まさか、月収制だったなんて、知る機会なんてなかったし。  母は深い深いため息をつき、もう一度謝ってくる。 「時間はかかるかもしれないけれど、お金は返すから」 「だったら、そのお金を、今いる子ども達への学費にしてあげて」 「学費?」 「そう。文字の読み書きや計算は、取り引きをする上でも役立つから」 「学なんて、養蜂家には役に立たないわよ」 「立つよ。俺は、養蜂の本を読んで、病気対策もしてきたし」  アントン・ヤンシャの本を読んで、新たに得た養蜂の知識は山のようにある。日々続けることで得る感覚も大事だが、勉強して得るものも大事なのだ。 「兄さん達が、文字の読み書きや、計算ができるはずだから、先生になってもらって。教えた分だけ、報酬を払ってほしい。身内とはいえ、労働をしたら、対価を与えてほしいんだ。兄さん達だけじゃない。子ども達にも」 「え、ええ。そうね。わかったわ」  理解してもらえて、ホッと胸をなで下ろす。これで、ツィリルや他の甥や姪達がタダ働きを強いられることはないだろう。  母が出て行ったあと、食事を取る。  こんな風にのんびり過ごす朝は、初めてだった。  ◇◇◇  出発の時間を迎える。見送りは母とツィリル、それからミハルだけ。  ひとまず、ミハルに手紙を託す。 「これ、みんなにお願い」 「ああ、任せておけ」  まだ、ミハルが元気を取り戻していない。昨日の今日なので、無理もないが。ツィリルのほうが、いつも通りだ。母は目を真っ赤にさせていた。  マクシミリニャンがやってくる。何か買い付けをしたのか、大きな荷物を抱えていた。 「さあ、イヴァン殿、行こうか」 「うん」  あまり話し込むと、寂しくなってしまう。だから、別れは手短に。 「ミハル、落ち着いたら、手紙を書くよ」 「ああ」   背中をポンと叩いたら、「力が強い!」と抗議されてしまった。その様子は、いつものミハルなのでホッとする。  ツィリルは目を輝かせながら、胸に飛び込んでくる。まだ小さなその体を、ぎゅっと抱きしめた。  離れると、ツィリルは手に握っていた革袋を差し出してきた。 「これ、イヴァン兄にあげてって、父ちゃんが」 「兄さんが?」  革袋の中身は、蕎麦の種だった。去年採っていた種を、そのままくれたようだ。 「父ちゃんがね、古い言葉に“新しい場所で蕎麦の種を蒔いて、三日以内に芽がでてきたら、そこはあなたの居場所です”っていうのがあるって、言っていたんだ。だから、居場所に迷ったら、この蕎麦の種を、蒔いてね」 「ありがとう」  蕎麦の種を受け取り、鞄の中に入れる。  ツィリルの父親ミロシュは他の兄と比べて比較的俺に優しかったが、特別扱いすると兄弟から反感を買うので表だって何もできなかったのだろう。  ツィリルの頭を撫でながら、感謝の気持ちをこっそり伝えておくように頼んでおく。 「ツィリル、元気で」 「イヴァン兄も!」  母はカゴに入った弁当を差し出してくれた。 「お腹が空いたら、マクシミリニャンさんと一緒にお食べなさい」 「ありがとう」  ただ、それだけの言葉を交わしただけなのに、母はポロポロと涙を零した。 「何があっても、あなたの家は、ここだから」 「うん」  これは決別ではなく、旅立ちだ。だから、いつでもこの家に帰ってこられるのだ。 「行ってきます」  手を振って、踵を返す。  ブレッド湖を背に、新しい一歩を踏み出した。  前を歩くのは、筋骨隆々の強面のおじさん。  はたして、彼の娘はどんな見た目で、どんな性格をしているのか。まったく想像がつかない。愛らしい娘だとマクシミリニャンは主張しているが、親の欲目の可能性が大であった。  果たして、マクシミリニャンの娘アニャは、顔面ボコボコの包帯男との結婚を受け入れるのか。  なんだか楽しみになってきた。