養蜂家の青年は、夜闇を走る!  大変な事態となった。  大雨の中、アニャは外に出て、蕎麦の種を植えた畑にシーツを被せにいくという。  滝のような雨である。もう、蕎麦の種なんて土から出てどこかに流されているだろう。 「アニャ、こんな大雨の中に出ていったら、風邪を引いてしまう。止めるんだ」 「いやよ!!」 「どうして、そこまでするんだ?」 「イヴァンと、結婚したいからよ!!」 「ええ~……」  結婚のために、ここまで蕎麦の種を気にしてくれるなんて。  アニャはすさまじい形相で、睨んでいる。とても、俺と結婚したい女性には見えない。 「どいて、イヴァン!」 「もう、アニャと結婚するから、外に行くのはやめなよ」 「いや!」 「ちょっと待って。今度はどうしていやなの?」 「私は、蕎麦の芽が出たのを確認したあとで、イヴァンと結婚したいの! でないと、私のわがままで、無理に結婚させたみたいになるでしょう?」 「アニャ……」  アニャの瞳から、涙がぽろぽろと流れている。  俺たちの結婚問題は、思っていた以上に深刻なものであった。  蕎麦の芽が出ないと、結婚させてもらえないらしい。 「今からだったら、間に合うかもしれないわ。お願い、イヴァン、どいて」 「わかった」  一歩、一歩とアニャに接近し、手を差し出す。 「な、何よ」 「アニャ、シーツ、貸して。俺が、やってくるから」 「そんな……! これは、私がやらなければならないことなのに」 「蕎麦の芽が云々と言いだしたのは、俺のほうだから」 「で、でも、風邪を引いてしまう、わ」 「アニャは蜜薬師だから、風邪を引いても治してくれるでしょう?」  そう言ったら、アニャは俺の手にシーツを預けてくれた。 「ねえ、無理そうだったら、すぐに戻ってきて」 「わかった」 「それから――」 「アニャ、早く行かないと、蕎麦の種が雨で流されちゃう」 「そ、そうね」  手にはランタンを持ち、もう片方にはシーツを持つ。アニャが扉を開いてくれた。  ドーーーーッと、激しい音を鳴らしながら雨が降っている。こんなに勢いのある雨は、初めてだ。 「ね、ねえ、イヴァン。やっぱり、止めましょう」 「いいや、止めない。アニャと植えた蕎麦の種は、守るから」  アニャの言葉を待たずに、外へ飛び出した。  石つぶてのような雨が、全身を打つ。痛がっている暇はない。一目散に、畑を目指さなければいけないだろう。  ちなみに、雨に打たれたランタンは一瞬で消えた。  こうなったら、勘で畑まで行くしかない。  幸い、夜に歩き回るのは慣れている。こういう、土砂降りの中で行動するのは初めてだけれど。  暗闇の中、順調に畑に到着するわけがなく、五回以上転ぶ。ドロドロの、びしょびしょだ。全身打ち身と擦り傷だらけの気がした。そんな状況でも、雨は容赦なく俺の体を打ち付けるように降っている。  体が痛い。けれど、それ以上に心が痛かった。  アニャの涙が、頭から離れない。  こうなったら、蕎麦の種には頑張ってもらわなければならないだろう。  でないと、誰も救われない。 「はあ、はあ、はあ、はあ」  真っ暗な中で、だんだんと目が慣れてきた。  離れの背後にある段差を登っていき、やっとのことで畑へと到着した。  蕎麦の種を植えたのは、畑の端っこだ。  もう、どんな状況かわからないけれど、とにかく、雨で種が流されないようにシーツを被せなければ。  シーツが飛ばないようにするには、大きな石が必要である。  たしか、畑の周囲を囲む石があったはずだ。手探りで探す。  八個くらい、止めていればいいだろうか。  蕎麦の種が植えられているであろう範囲に、シーツを被せる。が、風が強くて、上手く広がらない。  石を置いて、シーツを留めて回るしかないようだ。  一つ目の石を置いたあと、突風が吹く。 「うわっ!!」  シーツは捲れ、どこかへ飛んでいってしまった。 「嘘でしょう……?」  この暗闇の中、シーツを探すのは困難だろう。ここまでやってきたのに、目的を達成できないなんて。  俺の人生は、本当についていない。そう思っていたが――。 「イヴァン殿~~~~!!」 「イヴァン~~~~!!」  マクシミリニャンとアニャの声が聞こえた。  振り返ると、シーツを握りしめるマクシミリニャンの姿があった。  何やらどでかいランタンを持っていて、畑を明るく照らしてくれる。 「シーツが飛んできたから、驚いたぞ」 「おじさん……!」  結局、アニャはいてもたってもいられず、マクシミリニャンを呼びに行ったようだ。 「話はあとよ! 畑にシーツを覆いましょう」 「わかった」  三人で力を合わせて、畑にシーツを広げる。端に石を載せて、飛ばないようにした。 「これでいいな」 「ええ」 「早く帰ろう」  どでかいランタンで、道が明るく照らされる。  行きと同じ道なのに、ずいぶんと歩きやすい。  苦を共にしてくれるアニャとマクシミリニャンの背中を見ていたら、瞼がじわりと熱くなる。  少しだけ涙が出てしまったけれど、雨が流してくれた。  ◇◇◇  コーケコッコー!!  鶏の鳴き声で目覚める。カーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいた。  雨は、止んだようだ。  昨晩は、マクシミリニャンが用意してくれた風呂に入り、アニャに傷の治療をしてもらったあと、母屋で泥のように眠った。  全身が、痛い。雨の中、転びまくったせいだろう。  せっかく顔の傷が治りつつあったのに、新しい傷を作ってしまった。  むくりと起き上がる。  寝間着はマクシミリニャンのものなので、ぶかぶかだ。離れに戻って、着替える。  顔を洗い、髭を剃り、歯を磨き終えたところで、外からアニャの声が聞こえた。 「イヴァン、イヴァン~~!!」 「ここにいるよ」  勝手口から顔を覗かせると、アニャが走ってやってくる。 「蕎麦を、見に行きましょう」 「うん、そうだね」  正直、期待はしていない。だって、あの土砂降りだったし。  アニャと二人、無言で畑を目指す。  石垣を登った先にある畑は――水浸しだった。 「信じられない……」  みんなで被せたシーツは捲れ上がり、畑の畦道の上でぐちゃぐちゃになっていた。  当然、蕎麦の種を植えた辺りも、水没している。あの大雨だ。こうなるのも、仕方がないだろう。  畑に溜まった水が、青空を映しだしている。  蕎麦の種の件がなければ、素直に美しいと思っただろう。  今は、ひたすら雨水が憎らしい。  自然は残酷だ。どんなに頑張っても、抗うことなんてできないのだ。  アニャは畑の前に立ち、動こうとしない。 「アニャ、帰ろう」  そう声をかけたのに、アニャは畦道のほうへと駆け出す。 「アニャ?」  何か見つけたのか。アニャのあとを追いかける。  アニャは、シーツの前にしゃがみ込んでいた。 「どうしたの?」  アニャは振り返り、大粒の涙を零していた。 「イヴァン、これっ――」  しゃがみ込んで、アニャが指差すものを見た。  それは、シーツの隙間から生える、蕎麦の芽だった。小さいけれど、しっかり発芽している。 「蕎麦の、芽、だ」 「そうよ。一つだけ、芽が、出ていたの!」  信じられない。あの状況の中で、蕎麦が生きていたなんて。  昨晩の思い切った行動は、無駄ではなかったのだ。 「よかった~~~~!!」  そう言って、さらに涙を流すアニャを、ぎゅっと抱きしめる。  幼子をあやすように、背中を優しく撫でた。  この国には、蕎麦にまつわる古い言葉がある。  “新しい場所で蕎麦の種を蒔いて、三日以内に芽がでてきたら、そこはあなたの居場所です”  蕎麦の芽は、出た。  ここが、俺の居場所なのだ。  *** 毎日更新にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。 一部、完です。 以降は、不定期更新でお届けする予定です。 二部より始まります、アニャとの新婚生活編を、どうぞよろしくお願いいたします。 そして、長らく受け付け停止をしておりました感想欄も、本日より解放しております。 何かご感想がありましたら、お聞かせいただけたら幸いです。 それでは、引き続き『養蜂家と蜜薬師の花嫁』を、よろしくお願いします。