養蜂家の青年は、蜜薬師の花嫁と山を下る  朝食を食べたら、すぐに出かける。  マクシミリニャンが見送りに来てくれた。 「イヴァン殿、気を付けて、行くのだぞ」  眉尻を下げ、心配そうに見下ろしている。まるで小さな子どもが行く、初めてのお使いを見送る親のようだ。 「お義父様、大丈夫だから。アニャのことは、守るし」 「う、うむ。そうだな」  アニャが元気よく家から飛び出してくる。 「お父様、行ってくるわね」 「ああ」  アニャは心配ないようだ。力強く返事をして、見送っている。  手を振って家を出た。 「イヴァン、辛かったら、声をかけてね」 「わかった」  登りもかなり辛かったが、下りも同じくらい辛いらしい。  アニャのその言葉を、すぐに実感する。  マクシミリニャンと共に登ってきた岩場は、上から見るとかなり恐ろしい。ごつごつトゲトゲした岩に向かって、下りなければいけないのだ。  足を踏み外したら、岩場に真っ逆さまである。  アニャは小リスのように、慣れた様子でするすると岩場を下っていく。  上目遣いで俺が下りてくるのを待っている様子は、震えるほど可愛い。あんなに可愛い娘(こ)が待っているのに、膝が生まれたての子鹿のようになっていて思うように下りられないのだ。 「イヴァン、大丈夫。ゆっくりでいいのよ」 「ありがとう。アニャ、優しい」  少し下っただけで、ぐったり疲れてしまった。  岩場を下りたあとは、苔が生えて足場が最悪な川辺を下り、アニャが「ここ、よく熊を見かけるの」と説明してくれた恐怖の熊さんロードをびくつきながら通り抜け、途中にあった湧き水のある場所でひと休み。  まずは、冷たい水で顔を洗った。 「気持ちいい」 「水も、おいしいわよ」  山に降った雨が濾過されて、湧いて出るのだという。手で掬って飲んでみたら、驚くほどおいしかった。 「え、これ、すごい……!」 「でしょう?」  そろそろお昼だというので、昼食の時間にするようだ。  なんと、アニャはお弁当を作ってきてくれたらしい。 「お弁当、嬉しい!」  てっきり、その辺に生えている渋そうな木の実を摘まむものだと覚悟していたから……。素直にそう答えると、「リスじゃないんだから、お昼に木の実は食べないわよ」と言われてしまった。  アニャがリスみたいだと思ったことは、黙っておこう。  お弁当は蕎麦粉の生地に、レーズンを練り込んだパンだった。これに、レモンカードという、レモンにバターを混ぜたものを塗るらしい。  鞄の中から、どでかい丸パンが出てきたので驚いた。確実に、マクシミリニャンの顔より大きいだろう。  そんなパンを、アニャがサクサクカットしていた。ふかふか系の、やわらかいパンらしい。  アニャがカットした蕎麦レーズンパンに、レモンカードをたっぷり塗ってくれる。 「はい、召し上がれ」 「いただきます」  パンは驚くほどふっくら焼けている。蕎麦の風味が、口いっぱいに広がった。それに、レーズンの甘さがジュワッと溶け込んでいて、レモンカードの濃厚で酸味のある味わいが舌の上で混ざりあう。 「え、何これ……とんでもなくおいしい!」  アニャは「そうでしょう?」と言わんばかりに、にっこり微笑んでいる。  俺ばかり食べていた。囓ったパンはその辺で引っこ抜いた葉っぱの上に置いて、アニャの分のパンにレモンカードを塗ってあげた。 「はい」 「え、私に?」 「うん」 「あ、ありがとう」  アニャは小さな口でパンを囓って、「おいし」と言っていた。  アニャはよく、俺が食べているところを見つめているときがある。どうしてかと思っていたが、おいしそうに食べている様子は、飽きずにいつまでも見ていられるのだと気づいた。 「あー、可愛い」 「な、何が可愛いの!?」 「おいしそうにパンを頬張っているアニャが」 「み、見ないでよ」  怒られてしまった。ひとまず、食べるのに集中する。  アニャはパンの他に、ゆで卵と串焼き肉を作ってくれていた。串焼き肉は、先日マクシミリニャンが狩ったウサギである。 「っていうか、お弁当、重たかったでしょう? 俺が持ったのに」 「イヴァンは、商品を持っているでしょう? いつもは、商品とお弁当、両方自分で持って行っていたし、大丈夫よ」 「そっか」  アニャがカットしてくれたパンをすべて食べていたら、お腹がパンパンになってしまう。 「ちょっとごめん。動けなくなるほど、食べちゃった」 「いいわよ。ちょっと、横になっていたら?」  アニャはそう言って、自らの膝をポンポンと叩く。 「もしかして、膝を貸してくれるってこと?」 「ええ」  本当にきついので、お言葉に甘えて膝を借りた。  アニャは遠慮なく、俺の顔を覗き込む。 「ねえ、イヴァン」 「何?」 「街にいたとき、モテていたでしょう?」 「な、なんで?」 「きれいな顔立ちをしているから」  なんて質問をするのか。心臓が口から飛び出るのではないかと思った。 「双子の兄のサシャはモテていたけれど、俺はぜんぜんだよ」 「嘘だー!」 「本当だって」  だから、ロマナが本当は俺のほうが好きだったと聞いて、驚いたものだ。  彼女に関しては、刷り込みみたいなものなのだろう。  ふいに、突き刺さるような視線を感じる。野生の熊かと思いきや、アニャだった。 「何?」 「思い当たる節が、あったんじゃないの?」 「ないない、ないってば」 「ふうん」  やっぱり、アニャは鋭い。変なことは考えないようにしなくてはと、改めて思ったのだった。