養蜂家の青年は、月明かり差し込む部屋で蜜薬師の娘と会話する  この日は、客人用の離れを借りて休ませてもらう。  離れは暖炉に寝台、脇にサイドテーブルがあるだけの、シンプルな部屋である。  灯りを点していないのに窓から月明かりが差し込むので、ランタンを点けずとも十分過ごせる。  寝台に腰掛け、キョロキョロ見渡していたら、アニャがやってきた。 「これ、蜂蜜水とちょっとしたおやつよ。それから、ランタンも。必要だったら、点けてちょうだい」 「ありがとう」  アニャはそのまま立ち去らずに、こちらを見ている。 「どうかした?」  「あ――えっと、少しだけ、話してもいい?」 「いいよ」  アニャは腰に手を当て、俺を見下ろしながら話し始めようとした。 「ちょっと待って。座って」  隣をポンポン叩きながら言うと、アニャは素直に腰掛ける。気恥ずかしいのか。もじもじしながら、頬を真っ赤に染めていた。 「ごめんなさい。あまり、同じ年ごろの異性と、話したことがなくて」 「リブチェフ・ラズにいる男は?」 「あの人は、私を一方的にからかってくるだけ。童顔とか、嫁ぎ遅れとか、山女とか。まともな会話はしていないわ」 「酷いね」 「でしょう? 自分だって、二十歳を過ぎても結婚していないくせに、何を言っているのかしら」 「あー……」  おそらくだが、その男はアニャのことが好きなのだろう。仲良くなりたくて声をかけているのだろうが、内容が最悪過ぎる。 「それで、話したいことは?」 「ああ、そう。あなた、本当にいいの?」 「何が?」 「しらばっくれないで。私との、結婚よ」 「いや、まだアニャと結婚するか、決まっていないし」  運命は蕎麦の芽にかかっている。明日、アニャと一緒に種を蒔く予定だ。 「仮に決まったときのことを話しているのよ」 「そういう意味ね。さっきも話したけれど、俺は行く当てもない男だから」 「でも、私じゃなくても……。イヴァン、あなた、子どもが欲しくないの?」 「いや、俺は子どもの面倒を見れるほど、甲斐性があるとは思えないし」  素直に告げると、アニャは目を眇めて俺を見る。小さな声で「確かに」と呟いていた。あまりにも素直な反応に、笑ってしまう。 「あっ、笑ったら、顔が痛い」 「安静にしているように、言っていたでしょう?」 「だって、アニャが笑わせるから」 「私がいつ、笑わせたのよ」 「うん、そうだね」  アニャはよほど、子どもが産めない体であることを気にしているのだろう。気の毒な話である。 「もしも蕎麦が芽吹いて、結婚できるものだとしたら、俺はアニャを幸せにすることを人生の目標にしようと思っている」 「イヴァン……ありがとう」  アニャはウルウルとした瞳で、俺を見つめていた。庇護欲をかき立てられるような思いとなったが、肩に触れようとした瞬間、脳内にマクシミリニャンの顔が浮かんだ。  伸ばした手はそっと下ろし、ぎゅっと握りしめて拳を作る。 「アニャは、どうなの? 父親が選んだ相手と、結婚するなんてイヤじゃないの?」  聞いた途端、アニャは耳まで真っ赤になる。大丈夫なのか、心配になるほど羞恥心が顔に出ていた。 「あなたは優しいし、たぶん、働き者だろうし、嘘は吐かない人だと思うから、これ以上ない結婚相手だわ」 「そう。よかった。でも、俺がいい人ぶっていたら、どうするの?」 「あなたが、いい人ぶっているですって? そんな器用なことを、できる人には見えないわ。イヴァン、あなたはきっと、死ぬほど不器用な人なのよ」 「そう、かもしれない」 「でしょう?」  ほんの数時間しか話していないのに、人となりをアニャに見抜かれていたようだ。 「もっと、お話ししたいって思った男の人は、イヴァンが初めてよ。もしかしたら、あと三日間しかいないかもしれないけれど、とても嬉しいわ」 「アニャ……」  月明かりが、彼女の横顔を照らす。なんて、美しいのか。思わず見とれてしまった。 「アニャ、俺も――」  言いかけた瞬間、窓の外に丸太を片手で担いだマクシミリニャンが通りかかった。  通り過ぎる際、高速でこちらをチラ見していった。我慢できずに、噴き出してしまう。  こんな時間に、丸太を持って庭で作業するわけがない。きっと、俺たちの様子を確認しにきたのだろう。 「イヴァン、どうしたの?」 「いや、おやじさんが通りかかったから」 「まあ!! お父様ったら、覗きに来たの!?」  「たぶん、アニャがなかなか母屋に戻らないから、心配しているんだと思う」 「私は、子どもじゃないのに! それに、イヴァンはお父様が婿として連れてきたのに、どうして監視するようなことをするのよ!」 「まだ正式に結婚するわけではないから」  顔も口の中も痛いのに、笑ってしまう。同じ日にこんなに笑ったのは、初めてだろう。 「俺、ここに来て、よかった」  そう呟くと、アニャは淡く微笑んでいた。  こんなに楽しいところならば、ずっといたい。すべては、蕎麦の芽次第なんだけれど。 「じゃあ、そろそろ解散する?」 「そうね」  アニャを、母屋まで送る。離れと母屋はそこまで離れていないが、山なのでどこに熊が出てもおかしくない。  心配なので、きちんと部屋に入るまで確認しなければ。 「アニャ、また明日」 「ええ、おやすみなさい」 「おやすみ」  アニャは部屋に戻らず、こちらを見つめている。 「ん、どうしたの?」 「あ――ごめんなさい。幼いころ、おやすみの挨拶をするときに、お父様が頬にキスをしてくれたから。やだわ。もう何年も、していなかったのに」  つまり、アニャはおやすみのキス待ちをしていたわけだ。  さすがに、結婚もしていない相手にキスなんてできない。 「ゆっくり休んで」 「イヴァン、あなたも」  アニャと別れ、離れに戻る。  扉を開き中へ入ると、腕を組んで寝台に座るマクシミリニャンの姿が目に飛び込んだ。  悲鳴を上げそうになったのは、言うまでもない。