養蜂家の青年は、蜜薬師の娘とチーズを作る  翌朝、アニャは朝から俺が寝泊まりしている離れの扉を叩く。 「イヴァン、起きて! 蕎麦の芽を、見に行きましょう」  大変可愛らしいお誘いだが、起きてすぐ活動できるわけではない。  顔を出さずに、返事をする。 「アニャ、十五分くらい待って」 「なんで身支度にそんなにかかるのよ」 「いや、いろいろあるし」 「いろいろって?」 「……」  一瞬黙ってしまったが、別にアニャに本当の事情を説明する必要はない。てきとうに、顔を洗ったり、歯を磨いたり、髭を剃ったりするんだよと伝えておく。 「そんなの、気にしなくてもいいのに」 「最低限の礼儀だから」  なんとか説き伏せ、アニャにはしばし待ってもらう。  服を着替え、昨日、アニャが洗って乾かしてくれた服に袖を通した。ふんわりと、かぐわしい花の香りがする。何か、特別な石鹸で洗ったのだろうか。いい匂いだ。  外に出たら、アニャが手を腰に当てた状態で待ち構えていた。 「うわっ!」 「なんでそんなに驚くのよ」 「ごめん。まさか、外で待っているとは思わなくて。他のことでもして、待っていてもいいよ。ひげ剃りも歯磨きも、まだだから」 「もう、仕事は終わったわ」  なんでもアニャは、早起きして朝の仕事は済ませてしまったらしい。 「なんでまた、早起きしてまで働いていたの?」 「イヴァンと蕎麦の芽を見に行くのを、楽しみにしていたの。少しでも早く、確認に行きたくて」  一人でも確認できるのに、あえて俺と一緒に見たいのだという。なんていじらしいことを言ってくれるのか。  頭をぐりぐり撫でたくなるが、アニャは見た目が幼いだけで立派な成人女性である。そうでなくても、女性に気軽に触れてはいけない。  俺は、ロマナとの一件で大いに学んだ。 「じゃあ、もうちょっと待って」 「ええ」  急いで顔を洗い、髭を剃って歯を磨いた。  顔の腫れは、昨日よりだいぶいい。あと、三、四日もすれば完治するだろう。  蜜薬師である、アニャのおかげだ。 「お待たせ」 「ええ、行きましょう」  昨日、蕎麦の種を植えた畑を目指した。  まあ、当然ながら、昨日の今日なので、芽なんて出ていない。  アニャは姿勢を低くし、目を凝らしていたが、発見には至らなかったようだ。 「蕎麦の芽は、早くても四日から五日くらいだし、まだ早いよ」  運がよければ、三日目の朝に生えているかもしれない。  アニャはしゃがみ込んだまま、しょんぼりしているように見えた。  なんとなく、間違っているかもしれないけれど、アニャは蕎麦の芽が出てほしいと望んでいるように見える。  親子の穏やかでのんびりとした生活は、俺の性格にも合っているような気がした。  かと言って、芽が出なかったら、ここに置いてくれと懇願するつもりはない。  運命は、蕎麦の芽に託してある。もしも出なかったら、ここに相応しい人間ではなかったという天の思し召しなのだろう。 「アニャ、戻ろう」 「ええ」  個人的な感情は頭の隅に追いやって、働かなければ。  二日目の滞在が、始まる。  今日は昨日搾った山羊のミルクを、加工するらしい。  山羊のミルクは一晩おくと、分離する。表面に浮かんでいるものを、“クリーム”と呼んでいるらしい。このクリームを穴あき柄杓(スキーマー)で掬い、鍋に注ぎ入れる。 「これから、山羊のチーズを作るわ」 「了解」  まず使うのは、クリームを掬ったミルクらしい。これを、低温で熱する。 「ほんのり温かくなったら、クリームを注ぐの」  しばらく混ぜたら、ここにさらにミルクを入れる。 「追加のミルクは、朝に搾った新鮮なものなの。チーズを作るために、さっき搾ってきたわ」  さらに加熱するようだ。温めすぎは注意らしい。  目標の温度になったら凝乳酵素(レンネット)と呼ばれる、子牛の消化液から作った凝固液を冷水で薄めて入れる。  これは、麓にある畜産農家から買い付けているようだ。  この状態になったミルクを、きれいに洗った手で混ぜる。 「アニャ、それ、熱くないの?」 「熱くないわ。人肌よりも、低い温度なの」 「そうなんだ」  ミルクがもったりしてきたら、柄杓で表面をぎゅ、ぎゅっと押さえつけるのだ。  このまま一時間放置すると、ミルクは固まった。  ナイフで四角くカットし、布を当てた容器へ移す。その際に出た水溶液は乳清(ホエー)といって、栄養価が高いものらしい。スープに入れたり、菓子作りに使ったりするのだとか。  ここで、固形となったミルクに塩を加え、チーズクロスに包んで丸形の桶に詰め込む。  石造りのチーズプレスでしっかり固めるのだ。これがまた、とんでもない力仕事だった。  ハンドルを回してチーズを固める物なのだが、回すのに力がいる。 「イヴァン、頑張れ!」  アニャに応援されたら、頑張らないといけない。  最後に、塩を表面に塗って、熟成させるようだ。 「チーズ作りって、大変」 「そうなのよ。今日は、イヴァンがいて助かったわ。きっと、おいしいチーズになるはずよ」 「そう言ってもらえたら、何より」  完成したチーズは、果たして俺の口に入るのだろうか。  それは、蕎麦の芽のみが知る、というものだろう。