養蜂家の青年は、蜜薬師の娘と蕎麦の種まきをする  飼育しているのは、山羊だけではなかった。  鶏と犬もいた。  鶏は黒い羽を持つ品種だった。十年から十五年も生きるらしい。卵と肉を目的に飼っているようだ。  犬は母屋にいた。アニャの部屋で飼っているという。小型犬かと思いきや、熊みたいにでかい犬が出てきたので驚いた。  毛量の多い犬で、茶色と黒の混じった毛並みをしている。  ツヤツヤと輝く毛は、アニャが丁寧に手入れをしているのだろう。 「この子は、ヴィーテス。護畜犬なんだけれど、おっとりしていて、向いていなかったみたい。異国人が犬鍋にして食べたいって言っているところを、私が飼うって引き取ってきたのよ」 「そうだったんだ」  初対面の俺に対して吠えもせず、それどころか頭を撫でただけでお腹を見せていた。  護畜犬とは思えないほど人懐っこい。  普段は家で眠ったり、庭をのそのそ散歩したりしているのだという。驚くほど、普通の愛玩犬であった。  夜は、アニャを温めてくれるらしい。布団に入れて、一緒に寝ているのだとか。  それにしても、異国では犬を鍋にして食べる文化があるとは……。 「お前、犬鍋にならなくて、よかったな」 「わっふ!」  そんなことを話しかけながら、朝食である牛の骨付き肉を与えた。  ◇◇◇  マクシミリニャンお手製の朝食を囲む。 「たんと食べるがよい!」  食卓には、昨日アニャが焼いた蕎麦パンに昨晩の残りのスープ、蜂蜜に、スライスしたハムにオムレツが並べられている。  オムレツは綺麗な形に焼き上がっている。剛腕のマクシミリニャンが作ったとはとても思えない。  祈りを捧げたのちに、いただく。 「イヴァン、これ、オレンジの花の蜂蜜なの。食べてみて」  山には百年ほど前にオレンジの木が植えられ、蜂蜜を採っているようだ。寒暖差の激しい気候から、甘い果実を生らすことはないが、おいしい蜂蜜は採れるらしい。  蕎麦パンに塗り、頬張る。 「――わっ、おいしい」  ほのかな酸味があり、あっさりしている。パンとの相性も抜群だ。 「ヨーグルトに垂らしても、おいしいのよ。もう少ししたら、山羊のお乳が取れるから、作ってあげるわ」 「楽しみにしている」  ヨーグルトが作れるまで、ここにいるかは謎であるが。深く突っ込まないで返事だけしておいた。  マクシミリニャン特製の、オムレツも絶品だった。卵はとろとろ半熟で、トマトソースに絡めて食べる。パンの上に載せて食べても、おいしかった。  ハムは塩けが強かったが、これから汗を掻いて働くのでちょうどいいだろう。  しかし、アニャは口にした途端、マクシミリニャンに抗議する。 「お父様、これ、スープ用のハムよ」 「む、そうであったか?」 「塩辛いでしょう?」 「言われてみれば、そうだな」  どうやら、塩けの利いたハムではなく、スープ用に塩っ辛く仕上げたものだったようだ。 「イヴァン、あなた、塩辛くなかったの?」 「ちょっと塩けが強いなとは思ったけれど、こういうものだと」  アニャはこめかみを押さえ、深いため息を返す。 「お父様は、たまにこういうことをやらかすの。もしも何か気づいたら、指摘してあげて」 「はい」  ここは従順に、頷いておいた。 「今日は、畑に蕎麦の種を植えに行って――それから蜂の巣箱を見に行くわ」 「ならばアニャ、イヴァン殿に、大角山羊の乗り方を教えてやってくれ」 「いいけれど、大丈夫?」 「あまり、大丈夫ではないかも」  馬の乗り方でさえ知らないのに、山羊に乗れというのは無謀ではないか。 「山羊も、嫌がらない?」 「大丈夫よ。あの子達は、優しい子だから」  不安でしかないが、山羊が背中に乗せてくれることを祈るしかない。 「じゃあ、蜜蜂との付き合い方も、教えなければいけないわね」 「アニャ、イヴァン殿は養蜂家だ」 「え、イヴァンは養蜂家なの!?」  アニャは瞳を見開き、俺を見る。 「あれ、言ってなかったっけ?」 「言っていないわ!」  マクシミリニャンは俺が話していると思い込み、俺はマクシミリニャンが話していると思っていたようだ。一番ダメなパターンである。  共に、アニャに謝罪した。 「俺がしていたのは花から蜜を採る養蜂なんだ。野山の木々から蜜を採る養蜂は初めてで、いろいろ教えてもらうことになるけれど」 「大丈夫よ。蜜蜂との付き合い方を知っていたら、私が教えることは何もないわ。ほとんど、街のほうで行われている養蜂と、同じはずだから」 「だったら、よかった」  野草茶を飲みながら腹を休めたあと、アニャと共に畑に移動した。  マクシミリニャンは、山のいたる場所に仕掛けている罠を見て回るらしい。  罠猟で、獣肉を得ているようだ。 「お父様、行ってらっしゃい」 「ああ、行ってくる」 「気を付けてね」  アニャの言葉に、マクシミリニャンは背中を向けつつ手を振る。 「さて、私達も、仕事をしましょう」 「そうだね」  農具を持ち、移動する。  敷地内の石垣を登った先に、畑を作っているらしい。 「ここよ」  想定よりもかなり広い畑があった。春はここで蕎麦とトマト、カボチャにズッキーニ、パプリカ、ラディッシュにカブなどの夏に収穫する野菜を育てるらしい。 「蕎麦は来週蒔くつもりだったけれど、ついでにやっちゃうわ。イヴァンの蕎麦は、一番端のほうに蒔いてくれる?」 「わかった」   蕎麦は春蒔きと秋蒔きの、年二回育てることができる。  この辺りでは、春に種を蒔いているようだ。  我が国の蕎麦の歴史は長い。十四世紀頃に伝播(でんぱし)たと言われている。  小麦と大麦の間に育てられることから、農民の間で瞬く間に広がっていったらしい。  蕎麦はパン作りに使われたり、パン粉代わりにまぶされたり。練って湯がいたものを食べたりと、料理の幅も広い。国民食と言っても過言ではないだろう。  革袋の種を蒔き終えると、アニャの種蒔きも手伝う。  たっぷり水を与えたら、あとは芽吹くのを待つばかりだ。 「イヴァン、あなた、手持ちの種を全部植えてよかったの?」 「持っていても、仕方がないし」 「そう」  しばし、種を植えた畑を眺める。  蕎麦は種蒔きから発芽まで、だいだい早くて一週間くらいか。  三日でというと、奇跡に近いのかもしれない。 「アニャ、蕎麦の芽は、三日以内に出てくると思う?」 「さあ?」  神のみぞ知るものなのだろう。しかし、アニャは言葉を付け加える。 「でも、芽が出てきたら、いいわね」 「うん」  ここが俺にとって永遠の土地となるかは、蕎麦の芽次第。  あとは、三日間待つばかりだろう。  ◇◇◇  種蒔きが終わったら、大角山羊の騎乗方法を教えてもらう。 「基本的には、馬の背中に跨がるのと同じよ。鞍を装着して、頭絡(とうらく)を付けて、手綱で操るの」  アニャは手慣れた様子で、大角山羊に装着していく。  そして、鐙(あぶみ)を踏んで騎乗して見せた。 「ね、簡単でしょう?」  その言葉に、「見ているだけだったら」と返した。