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養蜂家の青年は、大角山羊と共に崖を駆け上がる
大角山羊に跨がり、アニャのあとに続いて山道を走る。
道は当然真っ直ぐでなければ、石畳で整えられたものでもない。ぐねぐねに曲がる獣道で、眼前に木が迫る恐怖と戦いながら進んでいく。
突き出た木の枝が、頬を叩く。
「痛った!」
子どものころいたずらをして、母に叱られて叩かれたときより痛かった。
枝を避ける技術を習得しないと、頬を切ってしまうだろう。気を付けなければ。
景色がものすごい速さでくるくる変わっていく。苦労して登った坂道を、センツァは一瞬で駆け上がった。
さすがの脚力である。大角山羊に乗って移動する意味を、身をもって理解した。
十分ほど走ると、ごつごつとした岩場にたどり着いた。
崖というほど断崖絶壁ではないものの、上へ上へと重なり合った岩は人が自力で登れるような場所ではない。
「イヴァン、見本を見せるわね」
アニャは笛を銜え、短く吹いた。すると、クリーロは膝を曲げ、岩に向かって跳んだ。
「うわっ!!」
俺が登ったわけではないのに、声をあげてしまう。美しい弧を描くように、跳んでいったのだ。クリーロの体はブレることなく、岩場に着地する。あんなに大きな体なのに、驚くほど安定していた。
軽やかな足取りで、どんどん上へ上へと登っている。信じがたい光景を、目にしていた。
「嘘だろう?」
これを、今からしないといけないのだ。ただ乗っているだけではダメなのだろう。
岩場を登るアニャの体は、ほぼ垂直になっていた。いったいどのようにして均衡を取っているのか。理解できない。
大角山羊に出す指示しか聞いていなかった。騎乗している側の心得も、何かあっただろう。もう、アニャの姿は小さくなっている。今更聞けない。
改めて、岩場を見上げる。ヒュンと、心臓が縮んだ気がした。
岩はごつごつしているうえに、ところどころナイフのように鋭く尖っていた。もしもセンツァの背中から落下したら、大怪我を負うどころか生きているかでさえ怪しい。
アニャは岩場の頂(いただき)にたどり着いたようで、ぶんぶんと手を振っている。
かすかに、声が聞こえた。「イヴァンも、早く登りなさいよ!」と。
なんて恐ろしいことを言っているのか。
センツァは早く岩場を登りたいのだろう。前脚をジタバタと動かし始めた。
覚悟を決めるしかない。
「よし、行くぞ」
覚悟を口にしたのちに、笛を銜える。歯が、ガタガタ震えているのに気づいてしまった。まったく、情けないものである。
アニャは大した勇気の持ち主だ。あんな岩場を、平然と登っていくなんて。
俺なんか、「登り切ったら金貨一枚あげる」と言われても、速攻で断るだろう。
はーーとため息を吐いただけのつもりが、笛の音が鳴ってしまった。
センツァは「待っていました!」とばかりに、「メエ!」と高く鳴いた。
「どわっ!!」
センツァは岩場に向かって大跳躍を見せてくれる。
空中滑走した瞬間、心臓は確実に半分ほどに縮んだだろう。生きた心地がまったくしなかった。
いつ、岩場へ着地したのかは、よくわからなかった。それくらい、衝撃が伝わってこなかったのだ。
体は傾き、少しでも腿の力を緩めたらセンツァの背中から落ちてしまうだろう。一瞬たりとも、気を抜けない。
早く岩場の頂へたどり着きたい。その思いから、笛をもう一度吹く。
「うわぁ!!」
跳躍時に体が引っ張られる感覚は、なんと表現したらいいのか。
木から落ちるときに似ているような気がした。体の中心がスーッと冷えていくような、不安感に襲われる。
二回目に着地した岩場は、一回目よりも足場が不安定だった。体がこれでもかと、傾いている。怖いので、三回目の笛を吹いた。
上に、上にと昇っていくにつれて、体が後ろへ引っ張られる。上体を前に保っていないと、転げ落ちてしまう。
もう、岩場で制止している時間は不要だ。一刻も早く、登りきりたい。でないと、腿の筋肉が限界を迎えてしまう。
跳躍と着地をタン、タン、タンの間隔から、タンタンタンの間隔に変える。
あまりにも早すぎて、自分がどういう状態にあるのかわからなくなってしまった。
恐怖は岩場のどこかに落としてしまったのか。
もはや何も感じなくなってしまう。
「はあ、はあ、はあ、はあ!!」
やっとのことで、岩場を登り切った。
岩場の頂には、豊かな木々が生い茂っている。そして、灰色熊のカーニオランが、目の前を通過していった。
新緑に芽吹く花に留まり、蜜を集めているようだった。
美しい光景に、ただただ見とれてしまう。
「イヴァン、やったじゃない! 初めてにしては、上出来よ!」
アニャの声を耳にした瞬間、やっと我に返る。そして、ドッと全身に汗を掻いた。
「俺、岩場を、登ってきた?」
「ええ。勇敢だったわ」
勇敢、だっただろうか。ひたすら、戦々恐々としていただけのような気もする。
頑張ったのは俺ではなく、センツァだろう。
センツァの背中から下り、鼻先から額にかけて撫でてやった。
「センツァ、よく、やった」
褒めると、目を細めて低い声で「メエ!」と鳴く。
センツァとクリーロは、しばしこの辺に放すらしい。笛を連続で五回鳴らしたら、戻ってくるという。それまで、自由にさせるようだ。
手綱を放すと、手が真っ赤だった。きっと、命綱のように思いながら力いっぱい握っていたのだろう。
一歩、前に踏み出そうとしたが、足が動かない。
「イヴァン、どうしたの? 気分が悪いの?」
「いや、そうじゃなくて……」
今の状態を、なんと表せばいいものか。息苦しくて、気持ち悪くて、体が重い。
体調に影響を及ぼすほど、崖登りが恐ろしかったのか。
「この辺は家がある辺りよりずっと空気が薄いの。体が、適応できていないのよ。その場に、座って」
「うん」
「ものすごい汗だから、脱水症状でもあるのかもしれないわ」
「そう、かも。なんだかものすごく、喉が渇いている」
「これを飲んで」
アニャが革袋に入れた飲み物を差し出してくれた。
「水にライムを搾って、蜂蜜と塩を加えた飲み物よ。これを飲んだら、たぶん体調不良もマシになると思うわ。全部飲んでいいから」
「ありがとう」
さっそくいただく。自分で意識していた以上に、喉が渇いていたようだ。爽やかな味わいで、ごくごくと飲み干してしまった。
「少し、横になりなさい。楽になるから」
岩場を登った先は、豊かな草むらと木々が広がっている。横になっても問題ないだろう。
だがここで、アニャは想定外の行動に出る。
足を伸ばして座り、ここで眠れとばかりに腿をぽんぽん叩いたのだ。
「いや、それはさすがに悪いような」
「頭を上げて眠ると、血液の巡りもよくなるのよ。体の負担も、軽くなるから」
「そうなんだ」
蜜薬師と呼ばれるアニャの言うことなので、素直に聞いていたほうがいいだろう。
ゆっくりと寝転がり、アニャの腿に頭を預ける。
「ついでに、顔の腫れに薬を塗るわね」
「よろしくお願いします」
汗を布で優しく拭ってから、蜂蜜色の薬を顔に塗ってくれる。
「それは、何?」
「蜂蜜軟膏よ。保湿と、殺菌効果があるの」
蜜蝋と蜂蜜、精油にした薬草を使って作るらしい。
アニャは鼻歌を歌いながら、蜂蜜軟膏を指先で伸ばしていた。くすぐったいし、なんだか気恥ずかしくもなる。
照れ隠しに、アニャに話しかけてしまった。
「アニャ、それ、なんの歌?」
「子守歌よ」
「……」
どうやら、アニャは俺を寝かしつけようとしているようだ。
まさか、二十歳過ぎて「いい子でねんね」をされるとは。
「イヴァン、瞼にも塗るから、目を閉じて」
目を閉じると、アニャは他の部位よりも優しく瞼に触れる。
蜂蜜軟膏は、ほんのり甘い匂いがした。直に蜂蜜を塗るよりは、さっぱりとしている。
アニャの鼻歌を聴いているうちに、先ほどの息苦しさや気持ち悪さは薄くなっているような気がした。
「アニャ、ありがとう」
そんなことを呟きながら、俺はアニャの腿を枕にまどろんでいた。