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養蜂家の青年は、ボーヒン湖の近くの村にたどり着く

 マクシミリニャン親子が生活するボーヒン湖の近くには、“リブチェフ・ラズ”という名の小さな村がある。そこまで、馬車が一日一本行き来しているのだ。

 一度も止まらずに馬車を飛ばしたら一時間。乗客を降ろしつつゆっくりだと二時間程度の道のりである。秘境と言われているが、ブレッド湖からさほど離れていない。

 しかし家から遠出したことのない俺にとっては、大冒険である。

 馬車に乗り、生まれ故郷をあとにした。

 窓の外に、雄大なブレッド湖が見えた。馬車が走り出すと、だんだん遠ざかっていく。

 俺の人生は、物心ついたころからブレッド湖と共に在った。

 春は湖畔で走り回り、夏は泳ぎ、冬はボートを漕いで遊んだ。関わりはそれだけではない。養蜂園の花々は、湖からくんだ水で育てられている。日々口にしていた蜂蜜は、ブレッド湖の豊富な水が作り出したと言っても過言ではないだろう。

 気分が沈んだ日は、決まってブレッド湖を眺めにいっていた。

 美しい孤島の教会や、水面で跳ねる魚、のんびり泳ぐ白鳥を眺めていると、不思議と気分が穏やかになるのだ。

 時に遊び場となり、時に生活を助け、時に励ましてくれる。

 これまで、ブレッド湖との関わりは切っても切れないものであった。

 そのブレッド湖が、遠ざかっていく。

 いいや、ブレッド湖のほうが遠ざかっているのではなく、俺が離れていっているのだ。

 なんだか寂しいような、悲しいような。切ない気分になり、瞼が熱くなる。

 すると、昨日サシャから受けた目元の傷がズキズキと痛んだ。

 どうやら、今の俺は感傷的になることすら許されていないらしい。

 強く生きろというわけか。

 太陽の光を浴びたブレッド湖の水面は、キラキラと輝いていた。

 まるで、人生に幸あれと、祝福してくれているようにも見える。

 ガタン! と馬車が揺れたのと同時に、ブレッド湖は見えなくなった。

 これからは、強く生きなければならない。

 守ってくれる家族はいない。俺が、守る側に立たなければならないのだ。

 果たして、財もない甲斐性なし野郎が結婚なんてできるのか。

 俺を選んだマクシミリニャンの目が、節穴でないことを祈るばかりである。

 馬車は三人掛けであるが、大柄のマクシミリニャンがどっかり腰掛けると、大人は二人しか座れなくなる。

 マクシミリニャンの腕は、太ももかと思うほどがっしりしていた。

 山での暮らしが、彼の体を筋肉質にしているのか。

 自分の腕と比べてみる。毎日朝から晩まで働いても、マクシミリニャンのようにムキムキにはならない。

 しばらく山で暮らしたら、筋肉質な体になるのだろうか。

 気になるところだ。

 もしかしたら、同じ山暮らしのアニャも、筋骨隆々なのかもしれない。マクシミリニャンの娘である。間違いないだろう。

 俺とは生まれも育ちも異なる娘である。しかし、マクシミリニャンのように気の良い人物であれば、上手くやっていけるだろう。

 初めての馬車旅である。早速、馬車の振動で尻がこっそり悲鳴をあげていた。

 マクシミリニャンを横目で見てみたが、腕を組んで微動だにしていない。彼はきっと、尻にも厚い筋肉がついているのだろう。羨ましいものだ。

 乗り合いの馬車は定員六名で、商人らしき中年男性や旅装束の若者がいる。彼らもボーヒン湖の近くにあるリブチェフ・ラズまで行くものだと思っていたのに、途中で降りてしまった。

 リブチェフ・ラズまで行くのは、俺とマクシミリニャンだけのようだ。

「母君から預かった弁当は、この辺りで食べたほうがよいな」

 口数が少ないマクシミリニャンは、それだけしか言わない。よくわからなかったが、ひとまず弁当を食べる。

 その三十分後に、早く食べたほうがいい理由に気付いた。

 村に近づくにつれて、道がガタガタになる。馬車が大いに揺れるので、気分が悪くなってしまった。

 そんな状況でも、マクシミリニャンは表情や姿勢を崩さなかった。さすが、山暮らしの男である。

 このように揺れては、食事もままならなかっただろう。早めに食べておいてよかったと、心から思った。

 あとは、食べたものが外に出ないよう、耐えるばかりである。

「イヴァン殿、あと少しの辛抱だ」

「……了解」

 ぼんやりと窓の外を眺める。森の中をひたすら進んでいた。鬱蒼とした森で、気分まで滅入りそうになる。

 しかし、森を抜けると、景色がガラリと変わった。雄大な山々に囲まれる湖が見える。

「あれが、ボーヒン湖?」

「しかり」

 湖の水は驚くほど澄んでいる。湖面はエメラルドグリーンに見えるところもあれば、スカイブルーに見えるところもある。見る角度によって、さまざまな色を見せてくれるようだ。

 ただただ、ボーヒン湖の美しさに見とれてしまった。人間がほとんど手をつけていない、そのままの大自然がここにはある。

 いい大人なのに、心が震えて少し涙ぐんでしまったのは内緒だ。

 ブレッド湖から馬車でゆっくり走ること二時間。ボーヒン湖の近くにある村、リブチェフ・ラズにたどり着いた。

「山羊の飼料を買って帰ろうぞ」

「山羊……」

 いまだ信じられないが、マクシミリニャンとアニャは、大きな山羊に跨がって崖を上り下りしているらしい。背中に鞍を乗せ、弓のように反った大きな角を持って移動しているようだ。山羊といったら、中型犬ほどの大きさという認識でいる。

 けれど、彼らが乗り回す山羊は、雌はロバくらいの寸法で、雄はロバより一回り大きいらしい。どんな姿形をしているのかでさえ、まったく想像できないでいた。

 リブチェフ・ラズは石造りの家が並ぶ、田舎の農村といった感じだ。雄大な山々に囲まれた地の、唯一の村である。

 ボーヒン湖で採れる黄金マスが名物で、それを目当てに各地から訪れる者もいるという。

「この辺りのマス料理店は、かつてここに保養に来ていた貴族に向けて出店されたものである。それゆえに、ぼったくり価格なのだ」

「今でも?」

「今でも、だな」

 現在は各国で苛烈な革命活動が起こり、昔ながらの貴族は減少している。けれど、富裕層がふらりとやってきて、しっかり散財してくれるようだ。

「山の蜂蜜も、そういう者達が好んで買っていくのだ」

「なるほど」

 貴族に成り代わる存在が、経済を支えてくれている。さぞかしありがたいことだろう。

「ブレッド湖も、昔は貴族が多く行き来していただろう?」

「俺が生まれたころには、ほとんどいなかったな」

「そうであったか」

 街には、貴族に向けた店が多く並んでいた。ブレッド湖の街の経済を、貴族が支えていた時代の話である。

 印象的だったのは、貴族御用達の人形店で、ずっと売れ残っていた金髪碧眼の少女人形。

 ずっと、店のショーウィンドウに飾られていたが、俺が八歳か九歳になる頃には、忽然と姿を消した。

 ミハルに話を聞いたら、少女の瞳がサファイアだったので、店主が解体し宝石商へ売り払ったのだという。瞳をくり抜かれた人形は、処分されたのだろう。それを考えると、気の毒な話である。

 金髪碧眼の少女人形が店頭からなくなってすぐに、人形店は閉店となった。

 その昔は、瞳に宝石を使った人形が、飛ぶように売れていたらしい。それほど、貴族は多くの財を有していたのだろう。

 ただ、貴族が優遇される時代は終わった。

 時代の移り変わりについて行けず、廃業となった店は多いという。

 先日、マクシミリニャン親子が皇家御用達の養蜂家と聞いて、心配していた。だが、マクシミリニャンの営む養蜂はその煽りを受けておらず、堅実な生活をしているようだ。その一点だけは、よかったと思う。

 村は田舎の農村、といった感じか。

 ブレッド湖のように観光地ではないので、若干寂れているような場所もある。

 周囲には放牧した家畜と、のどかな田畑が広がっていた。

 収穫期には、安価で小麦粉や蕎麦粉が買えるという。

 すれ違う人々は、顔面包帯男である俺を見てギョッとしていた。最大限に警戒されていたが、マクシミリニャンが一緒なのに気付くと、途端に警戒が解かれる。

「マクシミリニャンさん、そちらの方は?」

「アニャの――」

「ああ、なるほど」

 仲がいいのか、マクシミリニャンの言葉足らずな説明でも理解してくれたようだ。

「アニャさんがきたときには、また頼みますね」

「ああ、伝えておこう」

 村人は会釈し、去って行った。

 マクシミリニャンは、村人とも良好な関係を築いているのだろう。

「ああ、そうであった。納品先である、商店を紹介しよう」

 村のなんでも屋で、野菜から鍋までありとあらゆる品物が揃っているらしい。

 蜂蜜のシーズンになると、山を下りて買い取りしてもらっているようだ。

「ここなのだが――むっ!?」

 平屋建ての大きな店で、ブロンズ製の皇室御用達の看板がぶら下がっている。

 入ろうとしたところ、店休日という札がドアノブにかけられているのに気付いた。

 マクシミリニャンはわかりやすく、しょんぼりと肩を落とす。

「イヴァン殿、どうやら店は、休みだったようだ」

 今日のところは、店主に会わなくてもよかったのかもしれない。顔面包帯男を紹介されても、先ほどの村人のように困惑するだけだろう。

 店は猫騎士亭という名で、初老の男性が独りで切り盛りしているらしい。

 また次回に、という話になった。

「あとは、アニャに帰宅を知らせておくか」

「え?」

「急に帰ったら、驚くからな」

 いったいどういうことなのか。まさか、麓から「これから帰るぞ!」と叫ぶのか。それとも、早馬のように山の上まで至急手紙を届けることができるのか。

 予想は、どちらとも外れだった。

「鳩を使って、知らせるのだ」

「ああ」

 かつて、貴族の間で鳩レースが流行っていたらしい。しかし、時代の移り変わりで貴族は鳩レース場に訪れなくなった。困った事業主は、鳩に別の活用法を見いだす。それが、伝書鳩だったという。

 鳩は賢く、最長でブレット湖の街にまで手紙を届けてくれるようだ。

 赤い屋根の事務局の隣に、鳩小屋がある。覗き込むと、美しい白鳩だった。

 マクシミリニャンは伝書鳩専用の小さな便せんに、実に簡潔な『アニャへ 今晩戻る』という内容を書いていた。それを、鳩に託す。

「これでよし、と」

 すぐに手紙を持たせた鳩は、大空へと放たれた。

 続けて、本来の目的を果たす。

「さて、山羊の飼料を買うか」

 飼料店は営業していたので、ホッと胸をなで下ろした。

 ここでも、包帯だらけの顔を見てギョッとされる。しかし商人だからか、すぐに笑顔で接客をしてくれた。

「ありがとうございました」

「また、来るぞ」

「お待ちしております」

 これにて、村での用事は終わる。あとは、山を登ってマクシミリニャンの家を目指すばかりだ。

 店で買った飼料を、しっかり背負う。

 乾燥させた牧草でも買うものだと思いきや、最初に購入したのは青々とした細麦の束だった。

 他に小麦の外皮や、乾燥させた藁も購入した。

 これらの飼料は、背負子(しょいこ)に積んで運ぶ。

 力仕事は得意だ。家から持ってきた鞄と外皮の大袋を三袋、細麦の束をこれでもかと積んでしっかり紐で縛る。

「そのようにたくさん持って、大丈夫なのか?」

「平気。力と体力だけはあるから」

「そうか。ならば、頼むぞ」

 買い物は以上らしい。基本的には、自給自足で頑張っているようだ。

 そのため、よほどのことがない限り、食材を買い込まないという。

「何か、必要な品はあるか?」

「いや、特にないけれど」

「そうか。ならば、我が家へ行くぞ」

「了解」

 マクシミリニャンと共に村を出て、山の中腹にあるという家を目指す。

「麓から家まで、どのくらいかかるの?」

 軽い気持ちで問いかけた質問に、マクシミリニャンは思いがけない答えを返した。

「早かったら八時間くらいか。暗くならないうちに、帰れたらいいな」

「は、八時間以上!?」

 秘境を、甘く見ていた。長くても、登山は二時間くらいだと思っていたのだ。

 背負子の飼料が、急に重くなったように感じる。

 果たして、無事山の家にたどり着けるものなのか。

 もはや、不安しかなかった。