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養蜂家の青年は、山羊の世話を行う
マクシミリニャンは俺の顔を見るなり、「待っておったぞ」と声をかける。
どうやら、アニャだけでなく、マクシミリニャンも話があるようだ。
隣に腰掛けたが、黙ったままだ。
「何しに来たの?」
「謝罪を、しようと思い……。その、アニャはあの通り、結婚する気はなく……」
「ああ、そのこと」
マクシミリニャンはこの先アニャを独り残していくことに、危惧を感じていた話は事前に聞いていた。
黙って連れてきていた件に関しては問題だが、そうでもしないとアニャが結婚を受け入れなかったのだろう。
「アニャは絶対に、そなたを気に入ると確信していた。だが、イヴァン殿には、事前に説明しておくべきだった」
「アニャにもね」
「う、うむ……」
マクシミリニャンは反省しているようだったので、これ以上責める気にはならない。
「イヴァン殿、蕎麦の芽が生えなかったら、本当に、ここを出て行くつもりか?」
「まあ、そういう約束だから」
そう答えると、マクシミリニャンは途端に悲しげな表情になる。
「蕎麦の芽が生えなかったら、リブチェフ・ラズで仕事でも探すよ。それでたまに、アニャの顔を見に来るから」
「イヴァン殿、感謝する!!」
マクシミリニャンは俺を力強く抱擁した。体がミシッと悲鳴を上げたので、力いっぱい押し返して離れる。
「それで、アニャは、どうだ?」
「どう、というと?」
「愛らしいとか、可愛らしいとか、愛いとか、何か、感想があるだろう?」
それ、全部同じような意味じゃん。なんていう指摘はさて措いて。
「明るくて元気な、いい娘(こ)だと思う」
ただ、見た目は完全に十三から十四歳くらいの少女だけれど。その点は、目を瞑る。
「結婚相手として、申し分ない相手だよ」
「それはよかった。この先、我は安心して逝ける」
安堵したように呟くマクシミリニャンの背中を、励ますように叩いてあげた。
◇◇◇
朝――目覚める。まだ外はまっくらだが、そのうち太陽は昇るだろう。
服を着替え、ナイフと石鹸、歯ブラシ、ランタンを持って出る。
外は風がごうごうと激しく吹いていた。真冬だと思うほど寒い。
たらいに湧き水を掬う。山の水は、キンとするほど冷たい。
駆け足で下屋の勝手口から浴室に入る。洗面台にたらいに入った水を置き、鏡の横にランタンを設置した。
鏡を覗き込むと、顔のただれがなくなり、赤みも引いているのに気付く。顔がボコボコなのは相変わらずだが、痛みはずいぶんと薄くなっていた。
本当に、蜂蜜は傷の治癒に効果があるようだ。驚いた、医者の薬より効くなんて。
台所のほうからも、物音が聞こえる。アニャが、朝食の準備をしているのだろうか。
顔を洗って髭を剃り、歯を磨いたあと、台所の扉を開いた。
「おはよう、イヴァン殿」
「うわっ!!」
にっこり微笑みながら挨拶をしたのは、フリフリのエプロンをかけたマクシミリニャンだった。
なぜここに? と思ったが、昨晩、アニャが「食事はお父様と代わる代わるしているの」と話していた。今日は、マクシミリニャンが朝食を準備する番なのだろう。
それよりも、気になる点を尋ねてみた。
「そのエプロン、何?」
「ああ、これか? 以前、リブチェフ・ラズの婦人会でアニャがもらってきたものなのだが、使わないというので、我が使用している」
「……」
アニャがかけたら、さぞかし可愛かっただろう。マクシミリニャンの筋骨隆々の体に、フリルたっぷりのエプロンをかけた姿は違和感としか感じない。
「何か、手伝うことはある?」
「もうすぐアニャが起きてくるから、家畜に餌を与えてくれ」
「了解」
母屋のほうに行くと、アニャがやってきた。
「イヴァン、おはよう」
「おはよう、アニャ」
アニャはずんずんと接近し、俺の顔を覗き込んだ。
「うん。昨日よりはいいわね」
「おかげさまで」
「どういたしまして。今日は、軟膏を塗ってあげるわ」
「ありがとう」
「それにしても、早いわね。どうしたの?」
「家畜の餌をやるっていうから、手伝おうと思って。俺、お手伝いしたがりさんだから」
アニャが「安静に!」と言う前に、先制攻撃をしておく。すると、アニャは眉尻を下げながらも、噴きだし笑いをしてしまう。
「わかったわ。こっちに来て」
まずは物置に、飼料を取りに行く。アニャはランタンを持たずとも、薄暗い中をずんずん進んでいた。
「春は、小麦と外皮を中心に、細麦を与えるのよ。毎日放牧もしているのだけれど、餌を与えていなかったら、山の木々が丸裸になってしまうから」
「なるほどね」
まずは、乳用の山羊から。小屋の中には、子山羊がいて、高い声で「めえめえ」と鳴いていた。
ここにいる山羊は、よく知る白い毛並みの山羊である。
「子山羊はもうすぐ草や葉を食べられるようになるから、その辺りからお乳を搾るの」
アニャは説明しながらも、山羊にテキパキと餌を与えていた。
知り合いの山羊は、我先にと暴れるようにして餌を食べていたが、ここの山羊たちはのんびりしている。怖いという印象は、薄くなっていった。
「餌を食べている間に、掃除をするわよ。イヴァンは、水を汲んできて」
「はいはい」
山羊は地面に落ちた餌は食べないくらい、綺麗好きらしい。山羊の飼育でもっとも重要なのは、過ごしやすいよう清潔な環境を作ってやることなんだとか。
小屋に敷いてある藁ごと、糞などを回収する。これらは、肥料にするようだ。
「山羊の糞はコロコロしていて、他の家畜に比べて手入れがしやすいのよ」
「確かに」
牛や豚の糞は水分を含んでいて、臭いも酷い。山羊の糞も臭いけれど、牛や豚に比べたらマシだ。
小屋に水を流し、しばし乾燥させる。
山羊は、食事を終えたあとは山に放つらしい。日が暮れる前に、自主的に戻ってくるようだ。
続いて、肉用の山羊の小屋を掃除する。
「あ、こっちの山羊は、耳が垂れているんだ」
毛並みは茶色やブチ、褐色など、さまざまな色合いがある。繁殖させて、リブチェフ・ラズに売りに行っているらしい。
隣の小屋にいるのは、カシミア山羊とアンゴラ山羊である。共に、毛の採取を目的とした山羊だ。
カシミアの毛は真っ直ぐで、どこかおっとりした顔つきをしている。
アンゴラの毛はちぢれていて、目元も毛で覆われていた。
共に、この辺りでは見かけない品種である。昨日、マクシミリニャンが皇家より贈られたと話していた。
最後は昨日見かけて驚いた、騎乗用の山羊である。
近くで見ると、よりいっそう迫力があった。
一頭は白く、もう一頭は黒い。
「これ、本当に大きいね」
「大角山羊っていう山羊なの。この辺りに、生息しているわ。崖を駆け上るのが得意で、どこまでも登ってくれるのよ」
「そうなんだ」
通常は騎乗できるような種類ではないものの、マクシミリニャンが独自に伝わる調教で、騎乗できるように躾けたものらしい。
「白い子が、クリーロ、黒い子が、センツァ。奥にいる灰色の赤ちゃんが、メーチェよ」
「翼(クリーロ)に、影(センツァ)に、剣(メーチェ)、ね」
メーチェはこの春、生まれたばかりらしい。赤ちゃんだというが、乳用山羊の成獣と同じくらいの大きさである。ここからさらに、大きくなるのだろう。
山羊の世話が終わったころには、太陽が地平線から顔を覗かせていた。
一日が、始まろうとしている。