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養蜂家の青年は、花畑で春の支度を行う
かつて、この地は他国の支配下にあった。ブレッド湖周辺は王族の保養地として愛され、その昔は王族とすれ違う、なんてことも珍しくなかったらしい。
ブレッド湖の中心には孤島が浮かんでおり、教会がポツンと建っている。山頂から見たら瞳のように見えるので、ブレッド湖は“山々の瞳”とも呼ばれていた。
花畑養蜂園がある土地は平地であるものの、周辺は野山に囲まれている。
街の郊外にあるこの地では、豊富な湖水と豊かな自然が、おいしい蜂蜜をもたらしてくれるのだ。
ただ、何もしないで、たくさんの蜂蜜を得られるわけではない。
人が手を加えて、蜜蜂を世話しなければいけないのだ。
もうすぐ、春になる。
越冬した蜜蜂が、活動的になるシーズンである。
蜜蜂の動きに注目し、より快適な巣箱になるように助けてやらなければならない。
花畑養蜂園では、いたる場所に養蜂小屋が建てられている。
箪笥のように中が区切られていて、そこに出入りする蜜蜂が花の種類ごとに蜜を集めてくるのだ。
巣の出入り口となる蓋には、精緻な彫刻が施されている。
田園風景だったり、湖の様子だったり。街の芸術家に頼んで、作らせているようだ。
これらは蜂蜜の種類を見分けるものであり、養蜂家は豊かな生活をしていると自慢するものでもあるようだ。
兄達に頼まれていた仕事を終えると、母や義姉、年上の姪が次々と命令してくる。
それをこなすだけで、昼の鐘が鳴り響いた。
昼食は朝バタバタしていてもらいそこねてしまった。ブレッド湖に釣りに行こうとしたそのとき、声がかけられる。
「あの、イヴァンさん」
振り返った先にいたのは、ブルネットの髪の美女ロマナ。双子の兄、サシャの妻だ。
五年前、収穫祭で身売りをしようとしていたところを捕まえて、うちで住み込みで働かせた。
刷り込みされた雛のように、俺について回っていたが、結婚したのは兄だった。
それはまあ、しかたがないだろう。
継ぐべき花畑を持たない男のもとに嫁いでくる物好きなんて、いないだろうから。
「ロマナ、何?」
「これを……」
差し出されたのは、魚を挟んだ練りパイ。わざわざ、持ってきてくれたのだろう。
「ありがとう」
「あの、イヴァンさん、湖のほとりで、一緒に食べない?」
「それはダメでしょう。ロマナは、サシャの妻だから」
他の兄弟の妻と二人きりで過ごすのは、禁じられている。暗黙の了解だが、破るつもりはない。
ロマナはサシャと結婚したのに、結婚前のように過ごしたがる。
結婚しても仲良くだなんて、都合のいい話はない。
ロマナと仲良くしていて、サシャに喧嘩を売られても困る。だから、可哀想だけれど、彼女のことは遠ざけた。
今日も一人、青空の下で昼食を食べる。
午後からは母親に言われていた、羽化する前の雄蜂の確認作業を行う。
「おーい、イヴァン!!」
元気よく走ってやってきたのは、街に住む幼なじみのミハル。彼は雑貨商の息子で、幼い頃からイェゼロ家に出入りしている。
「ミハル、今日も、配達に来たの?」
「ああ。お前の兄ちゃんの酒とつまみを三箱も持ってきたぞ」
いつものことなので、何か思う心はすでに死んでいる。
蜂蜜を売って得た金も、兄達が湯水のごとく使ってしまうのだ。
ミハルは「おまけだ」と言って、干物の端っこを集めた包みをくれた。
「イヴァン、また、痩せたんじゃないのか?」
食いっぱぐれるのは、日常茶飯事。実の母親でさえ、気にしない。けれど唯一、ミハルやミハルの家族は心配し、食べ物をくれるのだ。
「最近は、ロマナがお昼をくれるし」
「お前、それ、大丈夫なのか?」
「何が?」
「何がって、ロマナはサシャの妻なんだろう?」
「そうだけど」
ロマナはサシャと結婚して、家の炊事を担当することになった。そのため、こっそり食事を分けてくれるのである。
結婚前は食いっぱぐれていた彼女に食事を分けていたので、その恩返しのつもりなのだろう。
「あんまり親しくしていると、誤解されるからな」
「それは大丈夫。さっきも、追い返したし」
「だったら、いいけどよ」
サシャは独占欲が人一倍強いので、ロマナが俺と仲良くしていると面白くないだろう。
だからなるべく、関わらないようにしている。
「それはそうと、例の件を考えてくれたか?」
「例の件?」
「忘れるなよ! お前と家の、養子縁組みの件だよ!」
「ああ」
ミハルの家族は変わり者で、俺を気に入ってくれている。信じがたいことに、養子縁組みをしたいと申し出てくれたのだ。
「ありがたい話だけれど、俺は、この仕事が好きだから」
「あー、やっぱり、お前と蜜蜂は、切っても切り離せないかー」
物心ついたときから、蜜蜂と共に在った。今更、離ればなれの人生なんて、考えられない。
イェゼロ家に蜂蜜をもたらしてくれるのは、腹部に灰色熊のような毛を持つ、カーニオランと呼ばれる蜜蜂。
彼らは温厚で、真面目。せっせと花蜜を集めてくれる。太陽の光を浴びると、カーニオランが持つ灰色の毛は柔らかく光るのだ。
そんな蜜蜂を、親しみを込めて“灰色熊のカーニオラン”と呼んでいた。
俺はそんな蜜蜂に、人一倍の愛着を抱いている。