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養蜂家の青年は、結婚前に話を聞く
 かつての俺は、養蜂家として、ただただがむしゃらに働くばかりだった。
 家族にいいように使われている自覚はあったものの、蜜蜂のためを思って世話を続けた。
 そんな考えが、家族の歪みの原因になっていたのかもしれない。
 双子の兄の嫁ロマナが、俺への好意を吐露した瞬間に、家族の関係にヒビが入ってしまった。
 家を出る決意を固め、偶然出会ったマクシミリニャンの娘、アニャとの結婚を決意する。
 生まれ育ったブレッド湖の光景を背にしながら、旅立った。
 そして、ボービン湖を取り囲む山を登ったのだ。
 マクシミリニャンの娘アニャは、息を呑むほど美しかった。
 金の髪は三つ編みをクラウンのように巻き、昼間は後頭部でまとめ、夜はそのまま流している。アーモンドのような大きな瞳は、まるで青空を映しだしているかのように澄みきっていた。ふっくらとした唇は、いつも弧を描いている。
 くるくると変わる表情は、どれだけ眺めていても飽きない。
 アニャは明るく、太陽のような少女だった。
 マクシミリニャンからは十九だと聞いていたが、見た目は完全に十三、四くらいの少女にしか見えない。
 正真正銘十九歳だが、なんでもアニャは未熟児として生まれたらしい。助産師によれば、十歳まで生きられるかわからないとまで言われていたようだ。
 予想に反し、アニャは元気いっぱい、健康な娘に育った。
 けれど、十九になった今も、初潮がきていないという。つまり、子どもを産める状態にないのだ。
 それを知って尚、俺はアニャとの結婚を受け入れた。
 アニャは子どもを産めないから結婚はできないと言っていたが、俺にとっては大きな問題ではない。
 義姉を何人も見てきて思うのは、妊娠、出産は女性の負担があまりにも大きすぎるというもの。
 アニャの母親は産じょく熱で亡くなってしまったというし、家系的にあまり妊娠、出産に強くないのかもしれない。アニャの小さな体では、命を削ってしまうほどの負担になるだろう。だから、別に子どもなんていなくてもいいと思っている。
 理解があるといっても、アニャは結婚できないというので、俺たちは結婚を蕎麦の種に賭けることとなった。三日以内に蕎麦の芽が出たら、アニャと結婚する。そう宣言した。
 見事、三日目に蕎麦の芽は土から顔を覗かせたのだ。
 そんなわけで、俺とアニャは結婚することとなった。
  ◇◇◇
 結婚する前に、マクシミリニャンより話があるという。何やら、決まりを話すようだ。
 アニャと二人並んで、話を聞く。
「まず、我のことは、お義父様と呼ぶように」
「呼び方は“お義父様”、で決まっているんだ」
「何か言ったか?」
「なんでもないです、お義父様」
 マクシミリニャンは満足げな表情で、コクコクと頷いた。
「次に、二人で仲良く母屋で暮らすこと」
 俺が使っていた離れは、客人用なので開けておくように言われた。
「あとは、頼むから、アニャを大事に、幸せにしてやってくれ」
「それはもちろん、そのつもり」
 アニャのほうをチラリと見たら、胸に手を当てて頬を赤く染めていた。可愛いやつめ。
 続いて、マクシミリニャンのほうを見ると、同じく胸に手を当てて頬を染めていた。こっちはまったく可愛くない。
「話は、以上だ。これ以上、我は干渉しない。何か起こっても、夫婦の問題としてよく話し合い、解決するように」
「わかった」
 アニャもコクコクと頷く。
「教会へは、いつ行くか?」
 夫婦となるには、神父から祝福を受けないといけない。
「っていうか、結婚式とかしないの?」
「招く親戚はいないからな。この辺では、二人で教会に向かい、祝福を受けて、夫婦となる者が多い」
「そうなんだ」
 行くならば、流蜜期になる前がいいだろう。八時間かかる登山と下山を考えたら、うんざりしてしまうけれど。
「アニャ、どうする? いつ行く?」
「別に、教会での祝福は、必要ないんじゃない? 私達の結婚は、蕎麦の芽が認めてくれたわけだし」
「それはそうだけれど、形式的なものも、大事だと思うけれど?」
 マクシミリニャンもそうだと頷く。
「正直に言えば、教会が、少し苦手なの。だから、別に祝福はしなくてもいいわ」
「うーん。まあ、アニャがそう言うなら、教会での祝福はなしの方向で」
 今、この瞬間から、アニャと夫婦ということになった。
「まあ、教会に行かずとも、一度二人で街に行くとよい。イヴァン殿も、必要な買い物があるだろう?」
 確かに、着替えなどの生活必需品は買い足す必要がある。
 アニャを付き合わせるのは悪いと思っていたが――。
「お父様、いいの!?」 
「ああ、ゆっくり買い物を楽しんでくるとよい」
「やったー!」
 アニャは買い物を、大いに喜んでいるようだった。
 ひとまず、買い物は流蜜期に向けての準備を行ってから行くこととなる。
 ◇◇◇
 流蜜期は、巣から蜜が流れるほど花蜜を集める。どんどん貯めていき、巣箱は蜜で満たされてしまうのだ。場所がなくなると、女王が卵を産み付けるスペースにまで蜜を貯め込むので、注意が必要である。
 蜜蜂の寿命は約四ヶ月間。このシーズンに生まれる蜜蜂が減ると、あとあと採れる蜂蜜の量に影響が出る。
 巣箱の状況を把握し、必要であれば巣枠を追加しなければならないのだ。
 午前中は巣枠を作り、午後からは巣箱の点検に向かう。
 アニャと共に大角山羊に跨がり、崖を登り、斜面を走り抜け、川を飛び越える。
 すべて見回ったあとは、川縁で休憩する。
 今日は日差しが強く、汗でびっしょりだ。川に飛び込みたい気分だが、さすがにまだ春なので風邪を引くだろう。それに、川の流れは速いし、深さもかなりのものだろう。今日のところは、顔を洗うだけにしておいた。
 水が滴る顔を拭こうと、背後に置いた布へ手を伸ばす。
「はい、どうぞ」
「アニャ、ありがとう」
 親切なアニャが、布を手渡してくれた。
「今日は、暑いわね」
「だね」
 隣に座るアニャがもぞもぞ動いていたので、何をしているのかと見つめる。
 靴を脱ぎ、スカートを膝までたくしあげ、川に脚を浸け始めた。
 白い脚が、これでもかと晒される。
「アニャ、何を――!」
「こうしていると、気持ちいいわよ」
「いや、若い娘が、脚を他人に見せるなんて」
「なんで? 私達、夫婦じゃない」
「あ。そうだった」
 見てはいけないと思ったが、アニャは俺のお嫁さんだ。脚なんて、いくらでも見ても許されるのだ。
 じっと見つめていたら、アニャは川から脚を引き抜き、たくしあげたスカートを元に戻す。
「アニャ、もういいの?」
「あなたが見るから、恥ずかしくなったのよ」
「恥ずかしくないじゃん。俺たち、夫婦なんだから」
「夫婦でも、恥ずかしいものは、恥ずかしいの」
 脚を拭くので、別の方向を向いておくように命じられる。
 夫婦だからいいというのは、すべての物事に当てはまらないようだ。

249
045.md

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養蜂家の青年は、蜜薬師の花嫁と夜を過ごす
 アニャと結婚しても、山で過ごす日々に変わりはないと思っていた。 
 母屋の奥にある寝室を、案内されるまでは。
「ここが、寝室よ」
 そこまで広い部屋ではないが、どでかい寝台がドン! と置かれていた。
 寝台の中心で、アニャの愛犬ヴィーテスがぐうすかいびきをかきながら眠っている。
 紹介されて以来、姿を見ていなかったが、だいたい外か家の中で眠っているという。実に羨ましい生活を送っているものだ。
「それにしても、立派な寝台だね」
「笑っちゃうでしょう? 私が十二の誕生日に、お父様がくれたの。手作りなのよ」
 何年も何年も乾燥させた栗の木で作った、気合いが入りまくりの寝台である。
 木目が美しく、手触りも上質だ。
「いつか、私が結婚して、旦那様と使うことを想定して作ってくれていたのよ」
 そのころから、アニャは結婚しないだろうと予想していたようだ。
「どうして? 十二だったら、初潮がなくても、別におかしくない年頃でしょう?」
「そうだったけれど、私は、ここを捨てて嫁げないから」
「どういうこと?」
「こんな山奥に、婿にきてくれる男の人なんて、いないだろうなって思っていたの」
「ああ、そういうこと」
 たしかに、麓の村で暮らす者に、ここでの生活は難しいかもしれない。何もかもが、異なる。
「イヴァンも、驚いたでしょう? 不便だし、やたら忙しいし」
「うーん。空気が薄いのは驚いたけれど、もう慣れたし、不便だとは思わないよ。別に忙しくないし。むしろ、豊かな生活なんじゃない?」
「ここの暮らしが、豊か?」
「うん。アニャもお義父様も、生き急いでいない感じがして。自然に身を任せているっていうか、なんというか。自分で言っていて、意味がわからなくなってきた」
 とにかく、実家で働いていたときとは、時間の流れがまるで異なるのだ。
「実家にいたときは、一日中ひたすら忙しくて、夜は死んだように眠ってっていう毎日だったんだ。でも、ここでは、食事を味わったり、景色を眺めたり、アニャやお義父様とゆっくり喋ったり。そういう時間があるのって、豊かだなって思うんだ」
「そんなふうに思ってくれていたんだ。よかった」
 アニャは安心したように、微笑む。
 ここで暮らす中で、彼女の笑顔だけは曇らせてはいけない。改めて、そう思った。
「お風呂に入ってくるわ。イヴァンは、先に寝ていてもいいから」
「うん、わかった」
 ここで、気づく。今日は、アニャとこの寝台で眠るということに。
 新婚夫婦には、初夜という儀式がある。
 しかし俺たちには、特に必要のないものだろう。
 先に寝ておけと言われたし。
 寝台を覗き込むと、真ん中を陣取ったヴィーテスが腹をぷうぷう膨らませながら眠っている。
 彼が真ん中にいるので、特にアニャを気にすることなく眠れそうだ。
 寝台に乗ると、ヴィーテスがパチッと目を覚ました。
「あ、起こして、ごめん」
「わふっ!」
 ヴィーテスはひと鳴きすると、起き上がる。のっそりと寝台から降りて、床の上に敷かれていた大判の布の上で再び横たわる。そのまま、眠ってしまった。
「え、ちょっと待って!」
 このままでは、アニャと二人きりで眠ることになる。ヴィーテスに寝台で寝てもいいと言っても、びくともしない。
 説得している間に、アニャが戻ってきた。
「イヴァン、何をしているの?」
「いや、ヴィーテスが、床の上で寝ようとしているから」
「ヴィーテスは、いつもそこで寝ているのよ」
「そ、そうなんだ」
 冬は暖かそうだなとか思っていたものの、一緒に眠らないようだ。寝台は誰も使っていないときだけ、占領しているらしい。
 風呂上がりのアニャは、頬を赤く染め、いつもは結んでいる長い髪をそのまま流していた。寝間着は、首から足首まで、いっさい露出がないシュミーズドレスである。
 助かったと思ったのは、ほんの数秒だった。
 ランタンの光がシュミーズドレスを透し、アニャの体のラインをこれでもかと見せてくれた。慌てて顔を逸らすも、しっかり見てしまった。
 凹凸のある胸から尻までの線に、すらりとした長い脚。
 いやいやいや、忘れろ忘れろと、呪文のように脳内で唱える。
 マクシミリニャンの顔を思い浮かべたら、気持ちがだいぶ落ち着いた。
「イヴァン、どうしたの?」
「なんでもない」
 もう、寝てしまえ。そう思って、半ばヤケクソな気分で布団に寝転がった。
「あ、そうだ」
「な、何!?」
「薬を塗りましょう」
「あ、うん。そうだね」
 サシャにボコボコにされた傷はほとんど治ったものの、雨降る夜に畑に行くまで転びまくり新しい傷を作ってしまったのだ。
 アニャにランタンを持っているように命じられる。
「大人しくしていてね」
「了解」
 アニャが目の前に座った途端、目を閉じた。これで、何も見えない。安心だ。
 けれど、目を閉じたので、服がすれる音や、アニャの息づかい、薬を塗る指先の触感を敏感に感じ取ってしまい、落ち着かない気分にさせてくれる。ある意味拷問であった。
「終わったわ」
「ありがとう、アニャ」
「どういたしまして」
 すぐさま、布団に潜り込む。アニャがランタンを消してくれたので、ホッとした。
 それも、数秒の安堵であった。
「ねえ、イヴァン。くっついて眠っていい?」
「な、なんで!?」
「髪の毛を乾かしていたら、体が冷えてしまったの」
 暖なら、ヴィーテスから取ればいいものの。
 しかし、あの巨大犬を持ち上げて布団に引き入れるのは不可能に等しい。
「いい?」
 可愛らしく聞かれたら、どうぞと答えるしかない。
 アニャは遠慮なく俺に抱きついた。
 胸が、むぎゅっと押し当てられる。
 特大の衝撃に襲われたが、奥歯を噛みしめてぐっと堪えた。
「やっぱり、温かいわ」
「よかったね」
 消え入りそうな声しか出なかった。
 その後、アニャはすぐにスヤスヤ眠る。俺はといえば、アニャが気になってなかなか眠れなかった。
 きっと男として意識されていないから、こんな目に遭うのだろう。
 特大のため息をつきつつ、長い夜を過ごした。

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046.md

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養蜂家の青年は、家族のために朝食を作る
 朝――アニャは昨晩同様、くっついたまま眠っていた。
 なぜか、手を繋いで寝ている。アニャの手が、俺の手に絡んでいる感じなので、向こうから握ってきたのだろう。
 意図は謎。まあ、無意識のうちに握ったのだろうけれど。
 アニャは天使のような可愛い顔で眠っていた。本当に、警戒心はゼロである。
 彼女より先に目覚めてよかった。
 アニャの指先が絡んだ手を引き抜き、物音を立てないようにゆっくりと目覚める。
「う……ん」
 離れた瞬間、アニャは体を丸くしていた。やはり、俺で暖を取っているだけだったのだ。
 足下にあった毛布を、アニャにかけてあげた。すると、眉間の皺が解れ、幸せそうな寝顔となった。
 これでよし、と。
 ヴィーテスは物音に反応することなく、ぐうぐう眠っていた。
 着替えを確保し、洗面所で着替える。
 洗った顔を拭いていると、アニャが寝間着のまま慌てた様子でやってきた。
「寝坊したわ!」
「なんで?」
「旦那様よりあとに起きたら、寝坊なの!」
「寝坊じゃないよ」
 そんな決まりはないと、噛んで含めるように言い聞かせた。
 しょんぼりしているアニャに、ある提案をしてみる。
「そうだ。俺、アニャに習ったエッグヌードルを作ってみようかな。作っている間に、着替えてきなよ」
「イヴァンが、ひとりで作るの?」
「うん。溶かした山羊のチーズをかけて黒コショウを振ったら、おいしそうじゃない?」
「おいしそう、かも」
「でしょう?」
 そんなわけで、今日は俺が朝食当番となった。
 が、一つ問題が発生する。
 エプロン置き場に、フリルたっぷりのものしか置いていなかったのだ。
 一瞬のためらいののちに、エプロンを掴む。
 おそらくこの家は、これしかないのだろう。心を殺して、エプロンをかけた。
 外に卵を採りに行くと、マクシミリニャンが山羊たちに餌を与えているところだった。
「おはよう、イヴァン殿」
「おはよう……お義父様」
 お義父様、という呼びかけに満足したのか、マクシミリニャンはにこにこしながら頷いている。
「昨晩はよく眠れたか」
「まあ、ほどほどに」
 これからエッグヌードルを作るのだというと、腰から吊していたかごから卵を三つくれた。「エプロン、似合っているぞ!」と言われ、送り出される。フリルたっぷりのエプロンをかけているのを、すっかり忘れていた。恥ずかしいにもほどがある。
 再び心を殺し、台所に戻った。
 材料を調理台に並べ、早速調理開始する。
 アニャがしていたように、小麦粉の山を作り、真ん中に窪みを作ってそこに卵を落とした。
「うわっ!」
 さっそく、小麦粉の堤防が崩壊し、白身が零れそうになる。慌てて小麦をかき混ぜ始めた。なんか、上手くまとまらない。
「オリーブオイルを垂らすのよ」
「あ!」
 いつの間にか、アニャが背後にいた。それだけ言って、外に出て行った。マクシミリニャンの餌やりを手伝うのだろう。
 アニャの言った通り、オリーブオイルを入れたら生地が滑らかになった。
 薄くのばして、カットしておく。
 湯が沸騰した鍋に塩をパッパと振って、麺を煮込んだ。
 味見しつつ、ほどよい硬さになったら、湯からあげる。しっかり湯を切って、木皿に盛り付けた。
 形は若干歪だが、上手くできたような気がする。
 アニャが戻ってきたので、どの山羊のチーズを使っていいのか聞いてみた。
「左のほうから順に、熟成されているやつ。加熱してとろとろになるのは、栗の葉っぱに包まれたのだから」
「わかった」
 細かくカットし、加熱してとろとろになったものを、エッグヌードルの上に垂らしていく。
 仕上げに、黒コショウをかけたら、チーズパスタの完成だ。
 母屋に持って行くと、なぜかアニャとマクシミリニャンが、緊張の面持ちで座っていた。
「どうしたの?」
「え!? あ、えっと、誰かに料理を作ってもらうのは、初めてだから」
「ドキドキしておる」
「そうだったんだ。お口に合えばいいけれど」
 なんだか俺まで緊張してくる。
 ひとまず、食前の祈りをして、心を静めた。
「よし、食べよう」
「ええ」
「うむ」
 二人の反応が、気になる。息を殺し、食べる様子を見守ってしまった。
  山羊の白いチーズは、麺に絡んでとろーんととろける。
「こ、これ、おいしいわ!」
「ああ、うまいな!」
「本当?」
 確認するために、食べてみる。
 麺はいい感じに歯ごたえがあり、山羊のチーズの濃厚な風味がよく合う。
 素材の大勝利という感じだけれど、今日のところは満点を付けたい。
「イヴァン、料理の才能があるわ!」
「店が出せるぞ」
「二人共、大げさ」
 そんなことを言いながらも、ニヤニヤしてしまったのは言うまでもない。
 ◇◇◇
 今日も今日とて、蜜蜂の様子を見て回る。
 出発前に、アニャが丁寧に洗濯された腰帯を差し出す。
「これ、洗って陰干ししていたから」
「ありがとう」
 受け取ったあと、アニャの視線は腰帯にあった。
「何?」
「いえ、きれいな刺繍だと思って。誰が作ったの?」
「いや、これは街で新しく買ったやつ」
「街で、売っているのね」
「まあ、うん」
「最近買ったの?」
「そうだね」
 基本的に、腰帯は家族が作る。アニャのところもそうなので、質問したのだろう。
 最近は、観光客用に売っているので、地味に助かった。
 出発前にミハルがいくつか見繕って、持ってきてもらったのだ。
「家族は、イヴァンに作ってくれなかったの?」
「作ってくれたけれど、あれはロマナが作ったやつだから、家に置いてきた」
「ロマナ?」
 口にしてから、しまったと思う。別に、名前まで言う必要はなかったのだ。
「ロマナって誰? もしかして、イヴァンの、恋人だった人?」
「違う、違う。サシャ――兄の嫁」
「お兄さんの奥さんが、どうしてイヴァンに腰帯を作るの?」
「さ、さあ? 本命用の、練習だったのかも?」
 その言い訳で、アニャは納得しなかったようだ。
 険しい表情で、俺を見ている。子育てシーズンの鹿みたいな鋭い目だった。
「イヴァンの腰帯、私が作るから」
「え?」
「ロマナさんが作ったものより、上手に作ってみせる!」
 なぜ、ロマナと張り合うのか。
 よくわからなかったけれど、アニャの力強い宣言に「よろしくお願いします」と返してしまった。

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047.md

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養蜂家の青年は、腰帯について思いを馳せる
 今日も今日とて、巣枠作りに追われる。流蜜期に向けて、そこそこ忙しい日々を送っていた。
 その脇で、アニャは裁縫を始めるようだ。俺の腰帯を作るために、張り切っている。
 布は、冬に作ったリネンを使うらしい。まさか、布まで作っていたとは。
 生地に施す刺繍は、初夏に刈った山羊の毛糸を使う。鮮やかな色は、草木染めにしたものらしい。
「どんな模様にしようかしら」
「なんだか、楽しそう」
「楽しいわ。だって、お父様以外の腰帯を作るのは、初めてですもの!」
 満面の笑みで答えるアニャは、死ぬほど可愛い。天真爛漫という言葉が、擬人化したような存在だとしみじみ思う。
「どうしたの? にこにこして」
「いや、アニャが可愛いと思ったから」
「か、可愛い? 私が?」
「可愛い、可愛い」
 感じたいい気持ちは、どんどん伝えたほうがいい。人生において感じた可愛いは、惜しまないようにしている。
 相変わらず、アニャは「可愛い」と言うと、顔を真っ赤にして盛大に照れてくれる。
 これが、重ねて可愛いのだ。
 可愛いは、可愛いを呼ぶ。知らない人が多いけれど、いちいち教えてあげるほど親切ではない。
 特にこの、アニャの可愛いは独り占めしたい。だって、彼女は俺だけの花嫁だから。
 頬に手を当ててにこにこしつつ照れていたアニャだが、ふと何かを思いだしたのか真顔になる。
「ええ、イヴァン。もしかして、ロマナさんにも可愛いって言っていたの?」
「なんで、ロマナが出てくるの?」
「だって、軽率に可愛いとか言ってくるし!」
「前にも言ったけれど、血の繋がった身内以外で、可愛いと思っているのはアニャだけだよ」
「そ、そう?」
 一回、ポロッとロマナの名を口にしてからというもの、アニャはしきりに気にしてくる。
 ロマナが俺のことを好きだったという話は一切していない。それなのに、ロマナと比べてどうかと聞きたがる。
 女の勘なのだろうか。鋭すぎる。
 アニャの機嫌はすぐに直り、鼻歌を歌いつつ山羊の毛糸を選び始める。
「イヴァンの髪色は銀色だから、濃い色がいいわよね」
「アニャ、これ、銀じゃなくて、濁った灰色」
 毛先が自由にはね広がった髪は、麦わらを燃やしたときにできる灰色に似ているとミハルに言われたことがある。くすんだ、曇天のような色合いなのだ。
 最近、アニャ特製の蜂蜜石鹸で洗っているからか、コシと艶が増した気がするけれど、銀色にはほど遠い。
「あら、知らないのね。太陽の光に当たるイヴァンの髪色は、銀色に輝いているのよ」
「そうなんだ。外でそういう風に見えているなんて、知らなかった」
「自分じゃ確認しようがないものね」
「まあ、うん」
 アニャは濃い緑色の毛糸を手に取り、こちらへ向けて右目を眇める。
「うん、この色がいいわ」
 ハンターグリーンという、狩猟服によく用いられる緑らしい。
「ホーソンという木の葉っぱを使って色づけしたものなの。ホーソンは動物性の繊維だったら、こんなふうに濃くて鮮やかな色がでるのよ」
「へえ、素材によって、出る色が違うんだ。面白そう」
「そうなの。なかなかはまるわよ、草木染めは」
「今度、やってみようかな」
「だったら、一緒にやりましょう」
「楽しみにしている」
 ここでの暮らしは仕事が山のようにある。けれど、楽しみも山のようにあるのだ。
 ひとつひとつの作業が新鮮で、面白い。
 草木染めも、どういうふうに染めるのか楽しみだ。
「腰周りを、採寸するわね」
「どうぞ、ご自由に」
 巣枠を組み立てているので、勝手にしてくださいという姿勢でいる。
 アニャは背後から接近し、ぎゅっと抱きついてきた。
 彼女のやわらかな体が、背中にぐぐっと押しつけられる。
「ちょっ、アニャ!」
「イヴァン、動かないで」
 背後から抱きつくように採寸されるなんて、想像もしていなかった。いろいろと心臓に悪い。
 アニャはすぐに離れる。ホッとするのと同時に、どこか惜しく思う気持ちもった。
「イヴァン、あなた、けっこう着痩せするのね。思っていた以上に、ガッシリしていたわ」
「もっとガリガリだと思っていた?」
「まあ、正直に言えば。でも、骨と皮だけだったから、もっと太ったほうがいいわ。」
「ここで暮らしていたら、きっと一年後にはムクムクになっていると思う」
「ムクムクになりなさい」
 アニャが腕によりをかけて、おいしい料理を作ってくれるという。ありがたすぎて、涙が出そうになった。
「さてと――」
 アニャは白墨チョークを手に取り、生地にさらさらと下絵を描いていく。いったい何の模様を作ってくれるのか。
 五分後、アニャは下絵を見せてくれた。
「イヴァン、見て。蔦模様にしようと思うの」
 アニャの描く蔦は、葉や小さな花が付いており、精緻な模様になりそうだ。
 ここで、ふと気づく。
「あ――」
 よからぬことが喉までせり上がってきたが、慌てて口を塞いだ。
「え、何?」 
「な、なんでもない」 
「なんでもなくはないでしょうよ。言いなさい」
「本当に、何でもない」
 アニャは素早く眼前にやってきて、キッと鋭い目を向ける。
「イヴァン、言いなさい」
「はい」
 渋々と、言おうとしていたことをアニャに告げた。
「ロマナが作った腰帯も、蔦模様だったんだ」
「具体的に、どんな模様だったの?」
「なんか、帯に巻きついているような」
 白墨を手渡されたので、布地の切れ端に模様を描く。
 すると、アニャはハッとなった。
「イヴァン、それは蔦じゃなくて、蔓よ」
「蔓と蔦って、どう違うんだっけ?」
「蔓は植物の茎が伸びたものの総称で、いろんなものに巻きついて成長するの。蔦は、地面に根を張ってどこまでも伝って伸びていく植物よ」
「あー、なるほど。蔓と蔦を混同していたかも」
「ロマナさんが刺したのは、蔓日々草ね」
「へえ、そうなんだ」
「花言葉は、“楽しき思い出”、“幼なじみ”。幸福と繁栄を願う言い伝えもあるわ」
 あの腰帯に、そんな思いが詰まっていたなんてしらなかった。
「それとは別に、“束縛”や“縁結び”の意味合いもあるんだけれど」
「ん? なんか言った?」
「いいえ、なんでも」
 蔓のイメージは、家族という大樹に絡まり離れられなくなっていたかつての自分のようだと思った。
「アニャが刺そうとしていた蔦は、どういう意味があったの?」
「“結婚”よ。もうひとつは、秘密」
「なんか気になるんだけれど」
「今度、気が向いたら教えるわ。それよりも、腰帯の完成を楽しみにしていて」
「わかった」
 周囲に関係なく、どんどん伸びていく蔦。
 今の俺に相応しい、腰帯が完成しそうだ。

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048.md

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養蜂家の青年は、義父と猟にでかける
 日々、食卓に上がる肉は狩猟で得ている。
 街のほうでは狩猟できる期間が定められていて、秋から春先までと決まっている。春から子育てのシーズンとなるからだ。個体数の調整のためらしい。
 一方で、山暮らしの家族には、禁猟なんてない。街に住む人達のように、皆がこぞって狩猟にでかけるわけではないからだ。
 むしろ進んで狩らないと、畑を荒らされたり、蜜蜂の巣箱を壊されたりする。人間と人間の扱う物は脅威であると、知らしめておく必要があるようだ。
 ここでの狩猟は、娯楽ではない。生きるために必要なものなのだろう。
 なんとなく、マクシミリニャンが猟銃を片手に狩猟に出かける様子を想像していた。
 実際は異なる。獲物はすべて、罠で捕まえているらしい。
 今日はウサギを捕まえる罠を見せてもらうことにした。
 ウサギの通り道に、仕掛けているようだ。
「罠猟の基本は、獲物を長い間苦しませないことだ」
 罠をしかけたときは、毎日様子を見に行くようにするという。
 長時間苦痛を与えるくくり罠や、鉄製のトラバサミなどは絶対に使わないと決めているらしい。
「かかっているといいのだが」
 マクシミリニャンが仕掛けた罠は、古きよき落とし穴。
 ウサギが脱出できないほど深く掘った穴に、木の棒や枯れ草を乗せたら完成。その上をウサギが通ったら、落下するというシンプルなもの。穴の底には、藁を敷いている親切設定らしい。
 落とし穴を仕掛けた木には、赤く染めたリボンを結んでいるという。そうすれば、どこに罠を仕掛けたか一目瞭然なわけだ。
 たしかに、緑だらけの森の中で、リボンの赤はよく目立つ。すぐに発見できた。
「おお、地上の仕掛けがなくなっておるな」
「ウサギが落ちているってこと?」
「まあ、そうだな。罠だけ落下して、中は空っぽという場合もある」
「なるほど」
 今のシーズンは子ウサギも歩き回っている。獲るのは成獣のみで、子どもは逃がしてやるらしい。
 穴を覗き込むと、ウサギが――いた。
 ウルウルとした瞳を、覗き込む俺とマクシミリニャンに向けている。まるで、「助けてください」と訴えているように見える。
「お義父様、これ、成獣?」
「成獣だな」
 マクシミリニャンは手にしていた網で、ウサギを掬った。ジタバタを暴れるウサギの手足を、素早く紐で結ぶ。
 腰から太いナイフを取り出し、首筋を切り裂いた。
 ウサギは「キー!」と大きくもない声を上げ、すぐに息絶えた。ウサギは声帯がないので、そこまで大きな声を上げることはないらしい。
 だったらさっきの「キー!」はなんだったのか。マクシミリニャンに聞いたら「ウサギの神秘だ」と答えていた。ポカンとしていたら、「鼻孔の近くにある器官が変形して、そのような音が出るのだ」と解説してくれた。
 どうやらウサギの神秘云々は、笑いところだったらしい。真面目に聞いてしまい、反省の意を示した。
 血抜きをするために木にぶら下げておく。その間に、穴を埋める。
「これ、使い回すわけじゃないんだ」
「ああ。毎回、新しい穴を掘っておる。山の命をいただく以上、変に効率化させたくないだけなのだが」
「そっか」
 街の禁猟に従うわけではないが、春先はどんどん狩猟するというわけではないようだ。
 他にも落とし穴を掘っていたようで、本日は三羽のウサギを得た。
 三羽目のウサギを仕留めたのだが、ナイフを入れる位置を間違えて苦しませてしまった。
 落ち込んでいたら、マクシミリニャンは最初から上手くできる者はいないと、優しく励ましてくれる。
「命を奪う行為が上手くても、自慢にはならぬ」
 かといって、きれいごとだけでは生きてはいけないと、マクシミリニャンは言葉を続けた。
 本当に、その通りだと思う。
 家に戻ると、マクシミリニャンはウサギの捌き方を教えてくれた。
 ウサギを持ち上げると、まだ温かかった。ウルウルとした瞳で見上げていた様子を思い出し、ウッとなる。
「なんか、おかしいね。魚がウルウルとした目で見つめていても、なんとも思わずにナイフで命を絶つのに。ウサギは、可哀想に思ってしまうなんて」
「その辺は、人間の愚かな部分なのだろう」
「間違いない」
 そんな話をしながら、再びウサギにナイフを入れる。
 まず、椅子に座って膝に布を広げ、その上にウサギを乗せる。この状態で、捌くらしい。
「まずは腹から。穴を開けて、指先で裂いていく」
 腿でしっかりウサギを挟んで固定させ、ナイフを腹に滑らせる。そこに指先を入れて、内臓の全体が見えるまで裂いていくようだ。胃や腸などを丁寧に取り出したあと、ウサギを布に包んで膝の上から台に移す。
「四肢を切り落とし、腹のほうから皮を剥ぐのだ」
 ここでようやく、皮を剥ぐ。マクシミリニャンは簡単にするすると剥いていくが、これがけっこう難しい。
 下肢から後肢の皮を剥いでいって、尻尾は切り落とす。
「あとは、後肢を掴んで上半身のように引っ張る」
 少し力を加えたくらいで、皮は破れてしまいそうで恐ろしい。ゆっくり、ゆっくりと剥いでいった。
 最後に、腱を切ったら、完全に皮と身は分離する。首もここで切り落とすようだ。
「最後に、肛門付近の処理をする。ここで失敗したら、肉が台無しになるから、慎重にするように」
「了解」
 再び腹から後肢まで刃を滑らせていき、肛門を切り取る。
 最後に胸からナイフを入れ、心臓や肝臓を取り除く。
 やっと、ウサギは市場でよく見かける姿となった。
「あとは、アニャに調理を頼もう。よく、頑張った」
 マクシミリニャンは血まみれの手を洗ってから、頭をガシガシと撫でてくれた。
 子どものような褒め方だったが、なんだか嬉しかった。
 夕食に、ウサギ料理が並んだ。
 ウサギの串焼きに、ウサギのシチュー、ウサギのソーセージと、ごちそうである。
 どれもおいしかったけれど、落とし穴に落ちたウサギのウルウルとした目は忘れられそうにない。
 なんというか、生きるって大変なんだなと、改めて思ってしまった。

205
049.md

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養蜂家の青年は、蜜薬師の花嫁と蜜薬を作る
 アニャは月に一度、一人で村に下りて具合が悪い村人の話を聞いたり、作った蜜薬を店に卸したりしているらしい。
 家畜や犬の世話があるので、マクシミリニャンと一緒に行くことはないようだ。
 今回、買い物のついでに、それらも済ませるらしい。アニャはせっせと薬作りを行っている。今日一日、助手を務めるよう命じられた。
「最初に作るのは、売れ筋の打ち身軟膏よ」
 力仕事をしていたら、知らぬ間に青あざができているときがある。あれは、地味に痛い。
 もしも街で打ち身に効く薬が売っていたら買っていただろう。それほど、打ち身だらけの毎日を送っていたような気がする。
「アルニカという花を使って作るの」
 乾燥させた黄色い花を、アニャは見せてくれた。
「このアルニカには、内出血を治してくれる力があるわ。他にも、筋肉痛やねんざに効果を示すのよ」
「へえ、そうなんだ」
 じめっとした、山の高い位置に自生しているらしい。
 夏から秋にかけて開花し、花の部分のみを摘んで使うのだとか。
「まず、煮沸消毒した瓶に乾燥させたアルニカを入れて、オリーブオイルにじっくり漬けていくの」
 本日は瓶十個分作るらしい。アニャがアルニカを入れて、そのあと俺がオリーブオイルを瓶に注ぐ。
「これを、日当たりがいい窓際に半月置くのよ。その間に、オリーブオイルに有効成分が染み出てくるの。半月経ったものが、あれよ!」
 アニャは窓際に置いてあった瓶を指し示す。
「あれ、アルニカをオリーブオイルに漬けたやつなんだ。なんか、食べ物だと思っていた」
「食べ物はだいたい、地下に保存しているわよ」
「だよね」
 オリーブオイルに漬けたアルニカを、漉していく。アルニカ自体も絞って、有効成分を一滴たりとも無駄にしない。
 オリーブオイルでベタベタになった手を洗い、次なる作業に移る。
「ボウルにアルニカの成分を含んだオリーブオイルに蜜蝋を加えて、湯煎で溶かしていくの。クリーム状になったら、打ち身軟膏の完成よ」
 打ち身軟膏を、小さな瓶にせっせと詰める。最後に空気を抜くため、トントンと底を叩きつけておくのを忘れない。
 瓶には、“アニャの蜜薬・打ち身軟膏”と書かれた紙を巻いて紐で縛る。
「これにて、打ち身軟膏の完成よ」
「おー!」
 薬だけでなく、女性用の美容品も作っているらしい。
「日焼け止めに、リップバーム、化粧水にハンドクリームとか、いろいろね」
 美容品も人気のようで、すぐに売り切れてしまうようだ。
「とうとう、明日になったわね」
「そうだね」
「いつも一人で行っているから、なんだか楽しみだわ」
 アニャがにこにこしているので、俺までなんだか楽しみになってきた。
 こんな感情なんて、いつ振りだろうか。
 不思議な気分だった。
 ◇◇◇
 朝――目覚めると着替えが入っているカゴに何も入っていなかった。アニャはまだ夢の中。先に、歯磨きと顔を洗いに行く。
 鏡を覗き込んだら、顔面の怪我がすっかり治っているのに気づいた。
 昨日までは若干顔が腫れていたが、アニャの打ち身軟膏が効いたのだろうか。ボウルにこびりついていたものを、塗ってもらっていたのだ。
 久しぶりに、自分の顔を見たような気がする。こんな顔だったんだ、と我がことながら思ってしまった。
 顔を拭く大判の布を手に取ったら、一緒に着替えが置いてあることに気づいた。手紙も添えてある。
 手に取ってみると、新しくアニャが作ったであろう服だった。
 リネンで作った腰まで丈がある長袖の貫頭衣に、黒いズボン。それから、アニャが作ってくれた蔦模様が刺繍された腰帯がきれいに畳まれていた。
「え、何これ、すごい……!」
 腰帯を手に取る。蔦を刺した刺繍が立体的だった。きっと、故郷の女性が作る刺繍とは異なる縫い方をしているのだろう。
 精緻で、繊細で、美しい。すっと伸びる姿は、結婚という意味があるという。
 アニャと俺の縁を繋ぐような腰帯だろう。
 腰に巻いて結んでみる。端には房飾りがあってとてもオシャレだ。寸法もぴったり。作業に邪魔にならないような長さで結んだ先が垂れているのが、カッコイイと思った。
 なんていうか、気が引き締まる腰帯である。
 手紙には一言。“イヴァン、いつもありがとう”と書かれていた。
 毎日忙しいのに、暇を見つけて作ってくれたのだ。なんだか泣けてくる。
 アニャはありったけのものを、俺に差し出してくれる。そんな彼女に、何を返せるのだろうか?
 と、感激している場合ではない。そろそろ、マクシミリニャンやアニャが起きてくる時間だろう。素早く着替えた。
 リネンの上着とズボンは、驚くほど着心地がいい。この服に、アニャの腰帯がしっくりくるのだ。
 せっかくアニャがすばらしい服を作ってくれたのだから、相応しい姿にならなければ。髪を梳ろうと思って、鏡に向き直る。しっかり櫛を通したが、癖毛なので見た目は変わらないという結果に終わった。
 居間のほうから物音が聞こえた。アニャが起きてきたのかもしれない。
 ひょっこり顔を覗かせると、起きたばかりであろうアニャと目があった。
「あの、アニャ、これ、ありがとう」
「あ、えっと、イヴァン。その、よく似合っているわ」
 なんだかぎこちない態度だった。どうしたのだろうか。
「なんか、変だった?」
「変じゃないわ! ちょっと、いつもと雰囲気が違うから、驚いて。あの、イヴァン、あなた、そんな顔をしていたのね」
 そうだった。今日、やっと怪我が完治したのだ。ボコボコでないきちんとした顔を、アニャが見たのは初めてだったのだろう。
「そんな整った顔立ちをしていたなんて、知らなかったわ」
「整った顔立ち?」
「なんでもないわ! 忘れて!」
 そういえば、同じ顔をしたサシャは「カッコイイ!」とか言われていたような気がする。一度も言われたことがなかったので、自分の顔についてあまり意識していなかった。
 というかよく、顔がボコボコの男と結婚してくれたなと、しみじみと思ってしまった。

245
050.md

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養蜂家の青年は、蜜薬師の花嫁と山を下る
 朝食を食べたら、すぐに出かける。
 マクシミリニャンが見送りに来てくれた。
「イヴァン殿、気を付けて、行くのだぞ」
 眉尻を下げ、心配そうに見下ろしている。まるで小さな子どもが行く、初めてのお使いを見送る親のようだ。
「お義父様、大丈夫だから。アニャのことは、守るし」
「う、うむ。そうだな」
 アニャが元気よく家から飛び出してくる。
「お父様、行ってくるわね」
「ああ」
 アニャは心配ないようだ。力強く返事をして、見送っている。
 手を振って家を出た。
「イヴァン、辛かったら、声をかけてね」
「わかった」
 登りもかなり辛かったが、下りも同じくらい辛いらしい。
 アニャのその言葉を、すぐに実感する。
 マクシミリニャンと共に登ってきた岩場は、上から見るとかなり恐ろしい。ごつごつトゲトゲした岩に向かって、下りなければいけないのだ。
 足を踏み外したら、岩場に真っ逆さまである。
 アニャは小リスのように、慣れた様子でするすると岩場を下っていく。
 上目遣いで俺が下りてくるのを待っている様子は、震えるほど可愛い。あんなに可愛い娘こが待っているのに、膝が生まれたての子鹿のようになっていて思うように下りられないのだ。
「イヴァン、大丈夫。ゆっくりでいいのよ」
「ありがとう。アニャ、優しい」
 少し下っただけで、ぐったり疲れてしまった。
 岩場を下りたあとは、苔が生えて足場が最悪な川辺を下り、アニャが「ここ、よく熊を見かけるの」と説明してくれた恐怖の熊さんロードをびくつきながら通り抜け、途中にあった湧き水のある場所でひと休み。
 まずは、冷たい水で顔を洗った。
「気持ちいい」
「水も、おいしいわよ」
 山に降った雨が濾過されて、湧いて出るのだという。手で掬って飲んでみたら、驚くほどおいしかった。
「え、これ、すごい……!」
「でしょう?」
 そろそろお昼だというので、昼食の時間にするようだ。
 なんと、アニャはお弁当を作ってきてくれたらしい。
「お弁当、嬉しい!」
 てっきり、その辺に生えている渋そうな木の実を摘まむものだと覚悟していたから……。素直にそう答えると、「リスじゃないんだから、お昼に木の実は食べないわよ」と言われてしまった。
 アニャがリスみたいだと思ったことは、黙っておこう。
 お弁当は蕎麦粉の生地に、レーズンを練り込んだパンだった。これに、レモンカードという、レモンにバターを混ぜたものを塗るらしい。
 鞄の中から、どでかい丸パンが出てきたので驚いた。確実に、マクシミリニャンの顔より大きいだろう。
 そんなパンを、アニャがサクサクカットしていた。ふかふか系の、やわらかいパンらしい。
 アニャがカットした蕎麦レーズンパンに、レモンカードをたっぷり塗ってくれる。
「はい、召し上がれ」
「いただきます」
 パンは驚くほどふっくら焼けている。蕎麦の風味が、口いっぱいに広がった。それに、レーズンの甘さがジュワッと溶け込んでいて、レモンカードの濃厚で酸味のある味わいが舌の上で混ざりあう。
「え、何これ……とんでもなくおいしい!」
 アニャは「そうでしょう?」と言わんばかりに、にっこり微笑んでいる。
 俺ばかり食べていた。囓ったパンはその辺で引っこ抜いた葉っぱの上に置いて、アニャの分のパンにレモンカードを塗ってあげた。
「はい」
「え、私に?」
「うん」
「あ、ありがとう」
 アニャは小さな口でパンを囓って、「おいし」と言っていた。
 アニャはよく、俺が食べているところを見つめているときがある。どうしてかと思っていたが、おいしそうに食べている様子は、飽きずにいつまでも見ていられるのだと気づいた。
「あー、可愛い」
「な、何が可愛いの!?」
「おいしそうにパンを頬張っているアニャが」
「み、見ないでよ」
 怒られてしまった。ひとまず、食べるのに集中する。
 アニャはパンの他に、ゆで卵と串焼き肉を作ってくれていた。串焼き肉は、先日マクシミリニャンが狩ったウサギである。
「っていうか、お弁当、重たかったでしょう? 俺が持ったのに」
「イヴァンは、商品を持っているでしょう? いつもは、商品とお弁当、両方自分で持って行っていたし、大丈夫よ」
「そっか」
 アニャがカットしてくれたパンをすべて食べていたら、お腹がパンパンになってしまう。
「ちょっとごめん。動けなくなるほど、食べちゃった」
「いいわよ。ちょっと、横になっていたら?」
 アニャはそう言って、自らの膝をポンポンと叩く。
「もしかして、膝を貸してくれるってこと?」
「ええ」
 本当にきついので、お言葉に甘えて膝を借りた。
 アニャは遠慮なく、俺の顔を覗き込む。
「ねえ、イヴァン」
「何?」
「街にいたとき、モテていたでしょう?」
「な、なんで?」
「きれいな顔立ちをしているから」
 なんて質問をするのか。心臓が口から飛び出るのではないかと思った。
「双子の兄のサシャはモテていたけれど、俺はぜんぜんだよ」
「嘘だー!」
「本当だって」
 だから、ロマナが本当は俺のほうが好きだったと聞いて、驚いたものだ。
 彼女に関しては、刷り込みみたいなものなのだろう。
 ふいに、突き刺さるような視線を感じる。野生の熊かと思いきや、アニャだった。
「何?」
「思い当たる節が、あったんじゃないの?」
「ないない、ないってば」
「ふうん」
 やっぱり、アニャは鋭い。変なことは考えないようにしなくてはと、改めて思ったのだった。
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